前編

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 ──お願い。行かないで。    * 「もっと分かりやすい名前のにしろよ。覚えられねーよ、そんな花の名前」 「何回も言ってるでしょ。ハーデンベルギア!」 「バラとか、チューリップとか、もっと分かりやすいのあるだろ」 「誕生日は好きなのくれるって、律が言ったくせに……」  お隣同士の家のベランダ。  夏の星座の下で、お風呂上がりにアイスクリームを食べる。 「ハーデンベルギア、覚えた?」 「忘れた」  律の言葉に、一華はため息をつく。 「それより、やっぱ抹茶アイスうまい! けど、味変もしたいから、お前のチョコと半分で交換な」 「やだよ。私、抹茶そんなに好きじゃないもん。最後までチョコがいい」 「じゃあ、一口でいいよ。チョコも寄越せ」  律がベランダの柵に足をかけ、こちらに手を伸ばしてくる。 「危ないから! 分かったよ、交換するから降りて」  幼い頃から、律とは『半分こ』ばかりしている。その行為に少しの照れが混じるようになったのは、律のことを好きだと自覚してからだと一華は思う。  半分で交換したアイスを見つめ、これって間接キスだよねと、そんな事を思うと途端に鼓動がうるさく跳ねた。そっと隣を(のぞ)き見ると、同じようにこちらを見ていた律と目が合う。 「な、なに?」 「別に……」  そう言って、目を逸らした律の耳が少し赤い。  交換した抹茶を一口食べた。  少しほろ苦い味が、口の中に広がっていく。 「あのさ」  律が、言う。 「なに?」  なるべく、なんでもないような声をだした。 「やっぱ、……いい」 「気になるよ」 「お前の、誕生日に言うから」 「分かった」  その後はどちらも無言でアイスを食べた。くすぐったい沈黙が、夜風と一緒に二人の間を通り過ぎた夏の日。  どうして今、そんな事を思い出すのだろう。  瞼の裏に広がる温かい思い出が、現実の、涙の雨に滲んで消えた──。
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