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夜の九時。残業を終えて帰ろうとした時のこと。見慣れない男が会社の廊下に佇んでいた。いや、あれは新入社員の子だったか。朝、総務部で一瞬見かけた。まさに今日、うちの会社に入ったばかり。入社初日から残業させられたのか、不憫だこと。ええと、名前を何と言ったかな。
「お疲れ。君、今日から働き始めたんでしょ。大変だね、いきなりこんな時間まで働かされて」
当たり障りのない言葉をかける。すると彼は突然、腰から直角に礼をした。面食らう俺にそのままの姿勢で、お久しゅうございます、と噛み締めるように言い放つ。
「え? 何処かで会ったことがある?」
思い当たる節は無いが、俺が忘れているだけなのだとしたら非常に気まずい。次の瞬間、彼は自分の背丈ほどもある棒状の物を取り出した。杖、だろうか。一体どこから取り出したのか。失礼します、と新人君が杖の先をこちらへ向けた。一体何が起きているのか。混乱を口にする間も無く、とんでもなく強い光が俺の全身へと浴びせられた。眩しい。熱い。目を開けていられない。そこで気付く。熱いのは光じゃない。俺の内側から発せられる、これは、力? 煮え滾るような、爆発しそうな、とんでもなく大きなパワー。どうしてそんなものを自分の中に感じるのだ。
やがて光は収まった。いかがでしょう、と声を掛けられる。指先を新人君に向けた。空中に雷撃が走る。それをロープのように操り彼を拘束した。力の使い方は本能的にわかっていた。おい、と静かに呼びかける。
「お前は何者だ。そして俺は何なんだ。これは魔法か? どうしてそんな非現実的な力が突然使えるようになった」
雷に縛り上げられた彼は苦痛に顔を歪めた。申し訳なくて少し緩める。それがいけなかった。瞬きする間に彼は姿を消していた。瞬間移動というやつか。新人君が立っていた場所には羊皮紙が一枚落ちていた。
「明日の朝九時十五分に此処で待ちます」
そう書かれた下に地図と住所が記されていた。折角の土曜日、ゆっくり寝ようと思っていたのに。でも結局俺と彼が何なのか、謎のままだ。仕方無い、業腹だが従うしかなさそうだ。
翌朝、指定された場所へ時間丁度に辿り着いた。標高約三百メートル、ロープウェー完備の山。その頂きに立つ。九時十五分とやけに細かい時間を指定したのは、ロープウェーの第一便が九時に動き出すからだったのか。気が利いているね。
おはようございます、と背後から声を掛けられる。再び拘束しようかと思ったが、朝早くから争うのも爽やかでないので取り敢えず振り返るだけに留めた。新人君が音も無く立っていた。無言で手を林の奥に向け、彼は歩き出す。細い背中を小走りに追った。
「さて、私に聞きたいことがたくさんあるでしょう。しかしその必要はありません。今から貴方様の記憶を封印から解きますから」
答える代わりに手の平を向ける。何ですか、と歩きながら彼は杖を構えた。違う。攻撃する気は無い。ただ一つだけどうしても教えて欲しいことがある。あのさ、と端的に切り出した。
「君、名前は何て言うの。俺、昨日はほとんどお客さん達のところを回っていたから君のことを何も知らないんだ」
新人君は目を丸くした。足を止める。そして杖の構えを解いた。失礼しました、とまた深々と頭を下げる。体、柔らかいね。
「ここでは兎本と名乗っております。自己紹介が遅れたこと、お詫び申し上げます」
「ありがとう。俺の名前は」
「存じております。合馬様、でしょう」
「様なんてつけなくていいよ。同僚だし、ただの平社員だし」
兎本君が顔を上げる。どういう心境なのか、満面の笑みを浮かべていた。彼はふわりと宙に浮かぶと、ちょっと離れた岩の前へ身軽に降り立った。いいな、空中浮遊。俺もやりたい。兎本君は、いいえ、と杖を振りかぶる。何に対するいいえだっけ。あぁ、様付けなんてしなくていいって言葉に対しての返事か。
「貴方様が記憶を取り戻せば、私が礼を尽くす理由もお分かりになります。なに、身構える必要はございません。しばしお待ち下さいませ」
昨日は不意打ちで魔法を使えるようにさせられたが、今度は一応説明をしてくれた。記憶の封印、ね。ここまで来たら好きにすればいい。ぼんやりと兎本君を眺める。今日は杖が赤く光った。地面に文様が浮かび、振動が少しずつ広がる。大人が十人両手を広げて取り囲めるくらいの大きさの岩。それがゆっくりと空中に浮かぶ。兎本君が杖を振ると、二十メートルほど吹っ飛んだ。木々が折れる。環境破壊は良くないと思うよ。
「そぉれい」
急にお祭りで囃子立てるお兄さんみたいな掛け声を上げられて、吹き出した。細くて青白い兎本君から到底想像出来ない調子だ。ギャップ萌えとはこういうことなのか。呑気に笑っていたら、地中から現れた光の塊が俺に激突した。途端に凄まじい頭痛が襲ってくる。ちょっと待て。身構える必要は無いって言っていたけど滅茶苦茶辛いじゃないか。
「兎本君、これ、凄い、きつい、ん、だけど」
切れ切れに訴える。ファイトです、と彼は拳を握った。ここに来て根性に頼るのかい。苦手なんだけどなぁ、根性論。それでも耐えるしかない。頭を押さえ、歯を食いしばり、痛みが過ぎ去るのをひたすら待つ。同時に、見たことの無い景色が頭の中に広がった。平和な世界。巨大な城。玉座に座る、あいつ。斬りかかる俺。
「大丈夫ですか。しっかりして下さい」
頬を叩かれ目を開ける。いつの間にか気絶していたらしい。兎本君がこちらを覗き込んでいた。ありがとう、と何とか体を起こす。まだ脳の奥が痺れる感じがあったけど、頭痛はほとんど治まっていた。
「兎本君。俺、思い出したよ」
傍らの彼にそう告げる。兎本君は躊躇なく土下座をした。
「お久し振りでございます。この日をどれほど待ち侘びたか。ようやくまたお会い出来ましたね、魔王様」
そう言われて口を噤んだ。沈黙が降りる。違和感を覚えたのか、兎本君がちらりとこちらを見上げた。
「どうされたのですか、魔王様。記憶がお戻りになられたのですよね。当然、魔王様の右腕である私のことも思い出されたのでしょう。それとも何か気にかかっておいででしょうか」
さて、困ったな。彼の認識は大いに間違っている。このまま話を進めるわけにはいかない。正直に打ち明けよう。兎本君、と背筋を伸ばし改めて切り出す。
「ごめん。俺、勇者」
「え?」
「魔王じゃなくて、勇者の方」
「……え?」
戻った記憶は魔王を討伐する勇者のものだった。本当に俺の前世なのかと聞かれると、あまり自信は無い。俺が今世で過ごした二十四年間をパソコン本体とするならば、たった今得た勇者の記憶は外付けHDDのファイルみたいな物だ。記憶には違いないが些か実感に欠ける。俺じゃなくてもダウンロード出来るのではないかと勘繰ってしまう。でもまあ魔法を使えるし、俺が前世で勇者だったのは多分間違っていないのだろう。そして兎本君は勇者と魔王を間違えた、と。
「勇者、ですと。貴方、勇者なんですか」
「うん。何か、ごめんね」
別に俺は悪くないのだが、顔面蒼白になる彼を見ていると申し訳なくなった。嘘だろ、と地面に両手両膝を付き彼は絶叫した。
「二十四年もかけて探し出したのに。勇者と相打ちになった魔王様、その魂の行方を必死で追いかけたのに。強大な力を持つ魔王様は絶対にあの世へなど行かずに何処かで生まれ変わっていると信じてずっと頑張ってきたのに。ようやく流れ着いたこの世界を突き止め、世界そのものに封印されたと気付き、必死でお助けにやって来たと言うのにぃぃぃぃぃ。何で勇者の方なんですかぁぁぁぁぁ」
口にしている内に感極まったらしい。号泣する彼を見守ることしか出来なかった。そしてここが林の奥で良かった。大の男が二人きりで、片方が大泣きしている絵面はあまり人に見られたくない。
しばらく待つと、彼はしゃくり上げる程度には落ち着きを取り戻した。
「兎本君。魂の行方を追いかけたって言ったよね。結果的に俺と間違えちゃったわけだけど、魔王さんもこの世界にいるのだとしたらもう一度調べれば見付かるんじゃない?」
俺の提案に唇を尖らせる。可愛くないよ。
「大層な勇者様は気軽に仰いますがね。私の魔力じゃ世界を走査し尽くすのに三年はかかります。おまけに私が見付けた強い力は貴方だけでした。魔王様の魂がここに流れ着いたのは魔力の痕跡から間違いありませんが、余程力を失っておられるのでしょう。無理なんです。私にはあのお方を見付けることは出来ません」
頭を掻く。右腕の割に諦めるのが早い。仕方無い。妙な話だとは思うけど。
「じゃあ俺が代わりに探すよ。やり方、教えて」
その言葉にこちらを二度見した。ティッシュを差し出す。取り敢えず涙と鼻水は拭いたほうがいいと思う。
「何故ですか。勇者の貴方が魔王を見付けるなんて、そんな、まさか改めてとどめを刺すつもりですか」
まあそうだよね。勇者が弱った魔王を探すなんて、ぶちのめしにいく以外の理由は思いつかないよね。でもさ。
「違うよ。俺は勇者じゃない。元勇者だ。元魔王を見付けても喧嘩をする理由が無い。うん、今はただの会社員だよ。そして君は職場の後輩。後輩が困っていたら手を差し伸べるのが先輩だ。だから一緒に探そう。君にとって大切な相手なんでしょう、魔王さんはさ。諦めたらいけないよ」
「しかし、もし私が魔王様復活によりこの世界を制服しようと考えていると言ったら、貴方はそれでも手を貸しますか」
彼の問いに笑顔で頷く。
「その時は、俺が止めるから問題は無いね」
兎本君の指示に従い術式と魔力を編む。計算上、一発で地球全土を走査出来るそうだ。いくよ、と地面に両手を置く。
「お願いします」
魔王の右腕が元勇者に手を合わせるなんて、不思議なこともあるものだ。
術が発動する。あまりにも膨大な情報が洪水のように流れてくる。受け止めずに見送り続ける。探しているのは魔王だけ。一度戦った相手だ、気配はわかる。
「ん?」
早くも引っ掛かりを覚えた。術を使いつつ引っ掛かった場所に意識を集中させる。兎本君、と掠れた声で呼びかける。それにしても流石に疲れるな、地球を走査するなんてさ。
「多分、見付けた」
「マジですか。まだ大して展開していないのに、よっぽど近くにいましたか」
「間違いないと思う。でも一応、地球全体を調べ終わってからその人のところへ向かおう」
近いどころか、何と言うか、うん。世界は狭いね。
結局それらしい反応は最初の一人だけだった。座標を兎本君に伝える。出発前にスマートフォンを少しいじった。何をやっているのですかと訊かれたので、別に何も、とはぐらかす。
「まあいいですけど。さあ、行きましょう。私が貴方にお礼を述べる結果になると良いのですが。いや、それはそれで悔しいですけど」
「いいからいいから。気楽に行こう。何事もさ」
兎本君の瞬間移動で件の人物の元へ向かう。今度、空中浮遊と合わせて瞬間移動のやり方も教えてもらおうっと。
ピンポンを鳴らす。程なくして扉が開いた。急に自宅を訪問した俺達を見て、彼女は少しだけ目を見開いた。しかしそれ以上の反応は無い。
「やあ弘井。急に押しかけて悪いね」
会社の同期である彼女は首を振った。
「連絡、貰っていたから」
「直前も直前だったけどね」
上がって、と弘井は告げた。お邪魔します、と遠慮なく突撃する。何度か訪れたことのある部屋。二人きりの同期同士、お互いの部屋で何度か酒を飲んだ。勝手知ったるとまでは言わないけれど、見慣れてはいる。
振り返ると兎本君が玄関先で口を開けて突っ立っていた。どうしたの、と目の前で手を振る。震える指で我が同期を指した。
「あの方が魔王様ですか」
「多分ね」
「私の直属の先輩じゃないですか。昨日、配属された部署でご挨拶しましたよ。席、隣ですよ。彼女の右隣が私の席ですよ」
「また右腕だね。良かったじゃん。隣に座る魔王様に君は気付かなかったわけだけど」
兎本君は頭を抱えてしゃがみこんだ。どのツラ下げて会えますか、と押し殺した声が聞こえる。
「そのツラを見せればいいと思うよ、魔王の右腕さん」
我ながら意地が悪い。それでもあまりにからかい甲斐のある状況に我慢が出来なかった。どうしたの、と弘井がリビングから顔を出す。何でもない、と俺もそちらへ向かった。兎本君は一分ほど遅れて後を追って来た。
「私が魔王?」
俺達の話を聞くと流石の弘井も眉を顰めた。
「俺も最初、信じられなかったんだけどね。見てよこれ。雷撃魔法。綺麗でしょ」
空中に雷でハートマークを作った。深い意味は無い。おぉ、と珍しく彼女が感嘆の声を漏らす。感心して貰えてちょっと嬉しい。
「弱った力も兎本君が戻してくれるし、魔王の記憶もさっき地球を探した時に見付けたんだ。君が嫌でなければ魔王として復活してもらえないかな。元勇者の俺が言うのもなんだけど、そこの萎び切った後輩のためにさ。彼、二十年以上かけて俺達を見付けたらしいよ。無碍にするのも可哀想かなって。それだけ頑張っておきながら隣の席に座る魔王には気付かなかったみたいだけど」
ついいじってしまう。項垂れた兎本君は、返す言葉もございません、と弱々しく呟いた。弘井が小首を傾げる。
「合馬は記憶も力も戻ったの」
「うん」
「それにしては普段の君と変わらないね」
俺はパソコン本体と外付けHDDの例えを伝えた。なるほど、と同期が頷く。
「私が私でなくなるのなら魔王になんて戻りたくなかったけど、合馬を見た限りでは大丈夫そうだね。いいよ、後輩のためだし魔王になってあげる」
よく考えなくてもとんでもない発言だ。そして勇者と魔王、魔王の右腕を採用したうちの会社はお祓いでもした方が良いと思う。
「ちなみに弘井と兎本君が世界を制服しようとしたら、俺が止めるからね」
我が同期は肩を竦めた。
「世界征服なんて面倒な仕事、私がやりたがると思う?」
俺も肩を竦める。
「有り得ない」
「流石同期」
再び兎本君の瞬間移動で運んでもらう。今度は標高七千メートルの山の上へやって来た。眼前に聳える岩肌。この奥深くに魔王の記憶が封じられている。俺は三百メートルの山でそこそこ大きな岩に封印されていただけなのに、扱いに随分差がある。別にいいけど。
恐れ入ります、と兎本君が弘井に杖を向けた。昨日の夜、俺に照射したのと同じ光。まずは力を解放する。二十秒ほど経つと兎本君は杖を下ろした。自分がやられた時はもっと時間がかかった気がしていたが、実際はこんなものだったのだろう。弘井が目を開ける。瞬間、俺は数百メートル飛び退いた。彼女を中心に一面が氷漬けになる。指一本も動かすことなく、しかも弱ったらしいのに恐ろしい力だ。傍らにいた兎本君は見事な氷像になっていた。
「俺や彼に恨みでもあるのかい」
遠くから大声で呼び掛ける。
「ごめん、ちょっと勢い余った」
無表情のまま弘井が答えた。余りすぎだろう、と言おうとしたけど下手にいじって凍らされては堪らない。弘井が手をかざすと兎本君はあっさり解凍された。
「隣の魔王様に気付かなかった罰でしょうか」
彼はまたも項垂れた。
「違うよ。勢い余っただけ」
お詫びにもなりませんが、と兎本君がまた杖を振り被る。しかし弘井が片手で制した。
「いいよ。自分でやるから」
しかし、と言い淀む彼に珍しく同期は微笑みかけた。後輩には優しい顔を見せるんだな。まあ、俺も五回くらいは同じように笑顔を向けられたことがあるけどね。
弘井が手をかざす。大きな揺れが地面や岩場を襲う。観光客なんて来ないような場所で良かった。あぁ、そういえば。
「弘井。結構頭が痛くなるから覚悟を決めておけよ」
「先に言ってよ。力の制御が効かなくなったら君らが何とかしてよね」
呑気なやり取りも、弘井が光に包まれて中断された。痛っ、と彼女が頭を抱える。兎本君が急いで杖をかざした。早くも制御を失ったか。弘井は頭を押さえていたが、とうとう膝をついてしまった。呑気者の俺でも心配になる。駆け寄り肩を抱くと、胸元に縋り付いて来た。痛いよ、と泣きそうな声が聞こえる。
「大丈夫。大丈夫だから」
根拠の無い慰め。魔王として復活してくれと気楽に頼んだことを後悔した。ごめん、と耳元で伝える。返事は無いが一層強くしがみついてきた。
苦痛は一生続くわけではない。やがて光の奔流も、弘井の苦しみも終わりを迎えた。荒い息をつく同期の背中を優しくさする。ありがとう、と慎重に顔を上げた。近いな。
「もう大丈夫」
「ごめん。記憶が戻る時はかなりキツイって伝えるべきだった」
「本当だよ。頭が割れるかと思った」
鎖骨の辺りを軽く叩かれる。おぉ、と意味の無い声が漏れた。如何ですか、と恐る恐る兎本君が弘井の顔を覗き込む。
「魔王様としての記憶は戻られましたでしょうか」
彼の問いに、うん、と深く頷いた。
「久し振り。よく此処まで来てくれたね、私の右腕」
弘井の差し出した手を、滅相もございません、と涙を流し兎本君が握り締める。感動の再会だ。
「良かったね、兎本君。二十四年もかけてやっと主君に会えて。それで、これから世界を征服するの? 弘井はやる気無いって言っていたけど」
言葉を飾っても仕方がないので疑問を直球でぶつける。目元を拭った後輩は、まさか、と首を振った。
「私はただ、魔王様に復活していただき、もう一度お傍に仕えたかっただけです。世界をどうこうするのは魔王様の自由です。私は付き従うのみ。世界を征服して下さい、など口が裂けてもお願い致しません。この状況だけで、既に私は満足です」
「真面目だねぇ。右腕を名乗るだけある。隣に座っても気付かなかったけど」
何度からかってもしっかり項垂れてくれる。本当に真面目だこと。それで、と弘井を振り返る。
「魔王として力も記憶も取り戻した君は、これからどうするの」
こちらも同じように首を振った。
「どうもしない。合馬が言ったように、魔王の記憶は外付けみたいなもの。私は私、弘井彩。魔王であって魔王じゃない。魔法の力は色々試してみたいけど、あとはいつもと同じ。ただの会社員だよ。君の同期で彼の先輩。それだけ」
「そっか。じゃあこれからも仲良く過ごそうね」
二人に手を差し出す。それぞれと握手を交わした。胸の奥が熱くなる。勇者と魔王として殺し合った俺達が、手を取り合っている。実感としては薄いけど、感慨深くはあった。歴史的な瞬間ですよ、と兎本君が呟く。
「やっぱりそうなんだ」
「お二人には前世のような感覚かも知れませんが、地続きで見てきた私には驚きと感動しかありません。いやはや、長生きはしてみるものですな。頑張ってこの世界まで辿り着いた甲斐もあります」
そうか。後輩という位置に収まったけれど、実際は兎本君が一番の年寄りなのだ。ちょっと接し方がわからなくなりそうだ。まあ先輩と後輩としてうまくやっていければいいな。
「ところで魔王様、もとい弘井先輩。顔が赤いようですが、まだ具合でも悪いのですか」
手を繋いだまま弘井を見る。なるほど、確かに頬に少し朱が差していた。何でもない、と彼女は顔を逸らす。
「調子が悪いなら言ってくれ」
呼びかけつつ繋いだ手を振ってみた。まさか、と兎本君が唇を三日月型に歪める。
「ところで有り得ない話だとは思いますが、万が一勇者と魔王、両者の血を継ぐ者が現れたらその方は世界をどうするでしょうね」
言い終わるかどうかというところで兎本君は氷漬けにされた。弘井が手を引っ込める。いやいや、そんな都合の良い話があるものか。
「なあ弘井。違うよな」
返事は無い。弘井さん、と呼び掛ける。沈黙が続いた。
もし仮に、勇者と魔王の血を継ぐ者が現れて、そいつが世界を征服しようとしたならば。元勇者と元魔王が、親としてきちんと止めるので問題は無い。だからどうかご心配なさらずに、ね。
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