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自動改札機がピンポーンと鳴る。
ほぼ同時に脚に衝撃。やっちまったと気が付いて、後ろを振り向く。ちょうど俺の後ろをついてきていた男がちっと舌打ちする。会釈をしてみるが、男はそんなものには目もくれず、隣の自動改札を苛立たしそうに通過していく。
もう一度操作をやり直して、今度は入場できる。やや年季の入り始めた階段を上がった先にあるホームにたどり着いてから、上り方面の電車が滑り込んでくるまでそう時間はかからなかった。冷房の効いている車内に入って、ドアの脇のいわゆる狛犬ポジションに陣取ると、かすかに香水の香りが鼻腔をついてくる。それがラベンダー以外の香りであると分かり、少しだけ残念な気持ちになった。
大分遠いところに陣取っている、おそらく中学生ぐらいであろう子供たちの集団が少し騒がしい。意識がそちらに向いていると何となく攻撃的な気持ちになってくるので、スマホをポケットから取り出し起動する。スリープ解除後の画面には首都圏から近いところにあるラベンダー畑の情報が表示されていてほんの一瞬だけびっくりする。30分ぐらい前まで自分で探していた癖に忘れていた。ダメだダメだ。ぼうっとしすぎだ。
空いている左手で軽く頬を叩いて、その後にスマホの画面を操作してブラウザのタブ一覧を表示する。これであとボタン1つでラベンダー畑の情報が載っているタブを消すことができる。これを消すか消さないか、いい加減俺も決めなければならない。もう忘れろ。日中、ラベンダー畑で偶然再会した、さして会いたくもなかった旧友の言葉が頭の中で再生された。
「よう、久しぶり。また会えたな」
右横からかけられた声の主に目を向ける。高校時代の友人の吉田が、水色のポロシャツとジーンズというラフな格好で立っていた。
「ああ、やっぱり年1回はここに来たくなってな」
全く予想だにしていなかった不意の再会でも何とか応対できた。でも、咄嗟についた嘘には後ろ暗さを覚えた。吉田は少しの間そんな俺を見て僅かながら苦虫を噛んだかのような表情をしたが、結局俺の横に立って一面に咲き誇っているラベンダーを見始める。しばらく沈黙が続く。微妙な空気が漂い始め、それに先に耐えられなくなったのは俺の方だった。
「今日は、家族サービスか?」
「まあ、そんなところ。ほら、あっちの方にいるだろ」
吉田が指さした方向を見ると、なるほど、1人の女性と1人の幼児、そして女性に抱っこ紐で括りつけられている乳児が1人いる。
「大変だな、お父さん」
「ああ、全くだ。偶の休みだってのに、子供たちが可哀そうでしょ、とか言って無理やり何かさせられる。1人でゲームしている方がよほどご機嫌なのにな。上の子なんか、完全にどくれちまった」
ほら見ろよ、あの顔、と吉田の言う通りもう一度見てみると、母親と手をつないでいる子の顔にはつまらんという感情がこれでもかと表現されている。
「男の子だしつまらんよな。何でまたこんなところに」
「最初はあの子の観たかったアニメ映画に行く予定だった。でも、嫁が不満げだった。もっと自然と触れ合えだとよ」
苦笑いしながらぶつくさ言い始めた吉田を俺はちらりと横目で見る。数年前に同じラベンダー畑で再会した時はまだすらっとしていたはずの吉田の腹が中年男性特有のでっぱりをつけはじめていて、それにほのかなもの悲しさを覚える。同時に自分もこれぐらいになるまでに年を取っているのだと思うと、絶望を抱く。
「川崎。お前は結婚しないのか?」
結婚したのか、ではなく、結婚しないのか、という質問なので色々と見抜かれていることを察することができた。
「このご時世にしてはストレートな質問だな。しないよ。相手もいないし、金もない」
「金なんて何とかなる。贅沢は無理だろうが、最近は自治体によっては色々な手当てや補助が付く。それに自分で築く家族っていうのはいいもんだ。責任感も生まれるし、やりがいもある。偶に面倒くさいが」
「知っているだろ? 昔から1人が好きなんだよ、俺」
昼飯も1人で食べてただろ、と付け加えると、吉田の喉元から音が鳴った。遠くから、パパ、と呼ぶ声がする。もう一度目を向けてみると、子供を連れている女性が不満げな顔をしていた。さっさとお前も子供たちの面倒を見ろ。そう考えているのは、コミュニケーションが不得手の俺でも流石に読み取れた。
「呼ばれてるぞ。行ってあげなよ」
俺がそう言うとほんのわずかながら、吉田の頬がひきつった。何だよ。何でそんな顔をするんだよ。心の中で俺は愚痴る。
「お前は」
吉田が口に出したその言葉はしかし、中々続きが出てこない。パパ。また吉田が呼ばれた。大変だな。先ほど言葉に出したことを、今度は心の中でふっと思ってしまう。それでも吉田は俺に向けていた表情を直し、代わりに少し困ったような笑みを子供達に向けた。
「川崎。いつまでも過去にとらわれるな」
吉田は自分の家族の方を向いて俺に背を向ける。そのせいで表情も読み取れなくなる。それでも吉田が何を考えているのかは察しがついた。
「奥村にはもう会えない。あいつのことは、もう忘れろ」
ふざけるな。うるさい。関係ないだろ。そんな言葉の数々が脳裏に浮かんだが、どれもこれも結局口に出すことができない。何も言えなくなっている俺に対して、吉田は言葉を重ねてくる。
「言えることはそれだけだ。別にお前の人生だから好きにすればいい。でも、あいつと会えることは多分もうない。会えたとしても、昔のあいつではないはずだ。お前があいつのことを好きだったことは知っているが、いつまでも会えない奴に金や時間を使うな。じゃあな」
年賀状ぐらいは出しあおうぜ、吉田はそう言い捨てた後、家族のもとへと向かっていく。その背中が若い時とは違って何だかとても大きく見える。柔道でインターハイまで行き、壮行式の時に登壇までした吉田信一郎は当時からものすごい存在感だったが、なぜか俺にはその時よりもずっと大きく思える。
「お前は」
吉田の背中に声をかける。でも今度は俺が言葉に詰まる。敗北感にも似た、もやもやした感情だけはしっかりと抱えているのに具体的に何を言いたいのか、自分でも分からなかった。吉田は足を止めてくれている。でもぐずぐずするわけにもいかなくて、俺は最終的には焦りに任せたまま、言葉を放った。
「なら、何でお前はここにいるんだ? 奥村のことがあるからじゃないのか?」
吉田は振り向く。その表情を見て俺は不覚にも後ずさりしそうになった。吉田の目にははっきりと苛立ちと鬱陶しさが込められていた。
「言っただろ。家族サービスだよ。お前と違って、幸せにしないといけない人間ができたんだ。いい加減、大人になれよ」
汚いものを目の前から押しのけるかのような勢いで俺にまくしあてた後、今度こそ吉田は俺から離れていく。家族にどんな表情を向けているのか、見えはしなかったが9割ほど予想がついた。あいつは大体のことはうまくやるのだ。
これだから年を取るのは嫌だ。見たくもない姿、聞きたくもない正論、会いたくもない人、そんな鬱陶しいものばかりに次々と出会う。そのくせたった1人の会いたい人間には会えないのだ。
電車が停まる。狛犬ポジションは乗降の邪魔になるから、俺はできる限り身を縮める。幸い、降りる人間も乗る人間もあまりいない。新たに乗った人の中に隻腕で白髪の男性がいて、いけないことだがほんの少し目がそちらを追ってしまう。彼が空いていた優先座席に座ったところで、電車はまたしても走り出す。
奥村。
ビルや住宅が途切れることなく建ち並び続ける都会の風景を眺めながら、彼女のことを思い出す。背中まで届きそうな長い髪、まるで折れそうなぐらいに細かった身体、ぱっちりと開いた目、俺の周りにいた同年代女子の中で一番綺麗だった、彼女。好きな花であるラベンダーの香水を好んでつけ、吉田の元彼女にして、卒業後、失踪扱いになっている女の子。
生きていたら言うまでもなく俺と同じ年になっているはずなので、もう女の子ではない。というかもしかしたら彼女自身が女の子を産んでいるかもしれない。そのことに思い至って胸のあたりがキリリと痛む。変な男と付き合って、身ごもった。大学を中退した。離婚してシンママになった。自殺した。今刑務所にいる。そんなこの世の中ではいかにも起こりそうな内容の噂が俺のいた地元では囁かれている。おかげでもう何年も地元に帰る気が起きない。
ポツッ、ポツッと大粒の雨が電車の窓に当たった。30秒もしないうちにゲリラ豪雨が始まる。滝のような雨。雨の音のおかげで遠くで話している中学生たちの声がやや聞き辛くなって、少しだけスッキリする。スマホには相変わらずタブ一覧が表示されている。昼のやり取りを思い出すことに使っていた頭をもう一度そちらに指向させる。
もう、あの庭園は終わり。
集客者数の減少に伴い、運営が赤字、だから閉園。そんなありふれた事情が公式HPに載ったのはもう随分と前で、今日が閉園前の最後の営業日。ラベンダーの咲くこの時期にしか使わない、でも今年も十分に元は取れている年間パスも明日からはただのゴミと化す。
最寄りのラベンダー畑は大分遠くなってしまい、今までのようにシーズン中、何度も足を運ぶには車がどうしても必要になる。その距離が何とも意地悪いものに感じられてきてしまう。庭園なんて収益性も低いだろうから、高層商業ビルに比べて数が少なくなっていくのは、仕方のないことだろうけど。
忘れろ。忘れろ。忘れろ。
現実を突き付けてくる吉田の言葉。俺の年齢。地元での噂。遠くなるラベンダー畑。そんな色んなものがしきりに俺に圧力をかけてくる。
強めの咳払いが聞こえて、反射的に目をそちらに向けてしまう。先ほどの隻腕の老人のものだ。恐らく痰の絡んだ咳だったのだろう。口元のもごもごとした動きで分かる。彼の眉間には皺が寄っている。その皺に人生における数々の苦悩が秘められているようで、俺はドアガラスの方へと目をそらしてしまう。でも、そらした先、ドアガラスに自分の顔が映っていて同じく深い皺が眉間に刻まれているのが目に入ってしまう。
逃げ場はない。神様にそう告げられているような気がした。雨は未だバタバタバタと降り続けている。ガラスに映りこんでいる自分の顔の目元にも当然水があたり、流れていく。
タブの×ボタンを押すだけだ。
俺は呼吸が自然と浅くなるのを感じながら、自分に言い聞かせる。消せば、楽になる。忘れてしまえば。皆やっていることだ。タップ1つで何もかもから解放される気がした。頭の中で底なし沼にはまって脚を動かせなくなっている自分のイメージが湧く。もう多分腰まで沈んでいるのだろう。やがて首まで浸かって、最後は呼吸もできなくなる。
そんなイメージに耐えきれず、親指を動かしてタブを消そうとした時だった。
「てめぇら!! うるっせぇんだよ!!!」
大声のせいで体がびくっと震えた。スマホを見ている場合ではないと半ば反射的に脳が判断し、視線を周囲に向ける。大分遠いところに立っている背広姿の中年男が怒鳴ったのだとすぐに分かった。呼吸が乱れているのか、肩が上下に大きく動いている。
最初から悪かった車内の空気が一層悪くなる。さっきまでうるさかった中学生達はぴたりと動作を止めてしまっている。何人かは怯えた顔をして、残りの何人かはムスッとした顔をしていた。まあ、どれだけ自分が悪くても公衆の面前で怒鳴られるのは理不尽だと思うだろう。確かにうるさくはあったが、同情の念を禁じ得なかった。
怖かったよね、大丈夫?
背筋を何かが這うような感触がした。不意に思い出したその言葉。奥村からかけてもらったその言葉。
俺が14で、彼女も同じく中学2年生だった時、同じような場面と理由で大人に怒鳴られて、その時に彼女からかけられた言葉。当時、あまり大人に怒鳴られることのない優等生だった俺は、相当傷ついた顔をしていたのだろう。思い出してくる。そうだ。あの時、自分は電車の中で体まで震えさせていた。塾帰りで連れ立っていた友達が平気そうにしている中、自分だけそんな状態だったので羞恥心まで覚えたのだ。
今思えば何てことはない。奥村はほんの少し俺を気遣ってくれただけ。そこに好意などあるはずもない。道端に倒れている人がいれば救急車を呼ぶぐらい、自然なこと。そこから彼女に対して好意を抱くようになった俺が、やや自意識過剰だったのだと今なら分かる。
その思い出が呼び水となって、次から次へと彼女のことを思い出す。吉田と手をつないで帰り道を歩いていた高校時代の彼女。冬の体操服に身を包んでいた彼女。偶に目が合ったときに会釈をしてくれた時の彼女。食堂で、席が空いていないために同じテーブルで食事をした時の彼女。
思わず、左手で目のあたりを押さえてしまう。熱くなっているその部分が冷めるように意志の力を総動員する。30を超えたおっさんが電車の中で泣き出すなんて、怪しすぎるにもほどがある。数分その態勢でいて、ようやく大丈夫になった時にはもう俺の降車する駅が近づいていた。
雨が止むタイミングをスマホで調べるためにもう一度画面に目を向ける。タブ一覧が先ほどと同じように表示されている。少し迷ったがそのままホームボタンを押して、雨雲の状態を把握できるアプリを起動する。どうやらあと10分もしない内に雨雲は通り過ぎることが分かり、ほっとする。ビニール傘を買う必要はない。気づけば電車に当たる雨粒による音も小さくなっていた。
電車の速度がどんどん落ちていき、完全に停まる。俺は狛犬ポジションにいたので、一番先に降車する。電車とホームの間に屋根がカバーできていないところがあって、そこから降ってきた雨粒がほんの少しだけ体を打った。でもそもそも濡れたり汚れたりして困るような物は着ていなかったので気にならなかった。
ホームに用意されているエスカレーターを下り、自動改札機にスマホを当てる。今度は行く手を遮られることはなく、スムーズに通れる。何となく、眉間に右手の人差し指を当ててみる。相変わらず、そこには皺が刻まれていた。きっとこの先もずっとこの皺とはお付き合いになるのだろうと考えながら、スーツ姿の男とすれ違った時、生地に染み込んでいるのであろう濃いタバコの匂いがした。ラベンダーの香りは少なくとも身の回りにはない。そのことを何とか受け入れようと自分に言い聞かせながら、俺は駅を出た。
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