耕造通りにて

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 虎は死して皮を残す、人は死して名を遺す。私は齢80歳で人生の幕を閉じたが、自分の人生にはおおいに満足している。会社を経営し、2人の息子を育て、財産を子孫に遺した。思えば常に何かを追い求め、奔走した人生だった。長男家族の住む大通りは私の名前にちなんで『耕造通り』と呼ばれている。  すでに鬼籍に入られている諸先輩方は、私の死の数年前から日本国ではじまったこの制度については、あるいはご存じないかもしれない。少子高齢化で需要も産業も衰えた日本国政府は財源不足に頭を抱えていた。貧乏人や企業からはもう金を取ることができないが、かといって超富裕層はありとあらゆる抜け道で節税している。増税したいが、彼らを怒らせたら海外への移住が進み、ますます財源が乏しくなる。そこで苦肉の策として政府が考え出したのは道の名前を超富裕層向けに競売にかけることだった。いくらかかるか、どのような書類が必要か、一般には公開されていないミステリアスな制度だ。選ばれた高額納税者のみにその案内が届く。「あなたの名前を後世に残すことにご興味はありませんか?」というわけだ。私のところにも手紙があった。  私の一族が代々住んできたこの街は富裕層が多く住んでおり、その中でもとりわけ私は成功している。近頃健康に陰りが見えてきて、いかに財産を子孫に遺すか考えていた私にとっては少々痛い出費だったが、「一度決まった道の名前は未来永劫変わりません」という文言に強い興味を覚えた。先祖代々住むこの街のこの道に私の名前がつく。近隣住民の住所に「耕造」の名が入るのだ。長男家族には孫がいる。目に入れても痛くないほど愛おしい孫だ。この故郷の街に祖父の名があれば大いに名誉なことだろう。孫がいつか誰かに手紙を書き、また誰かから手紙を受け取るときに私の名前が目に入ればおのずと私のことも思い出すというものだ。  こうして私の最晩年の目標が決まった。人を雇って手続きを進め、私達一族の住む前の通りの名前を「耕造通り」にすべく書類と多額の寄付金を準備した。ところが一筋縄ではいかなかった。そう、「競売」というからには競争相手がいる。同じ時期、同じように案内を受け取った超富裕層の「利通」だ。最後までこの道の名前を争ったこの男のことは文字通り死んでも忘れることができない。正直いって奴のことはあまり話したくない。卑劣な男だ。あいつも私の死の数カ月後に亡くなったから、これから向こうで顔を合わせることになるだろうが、きっと向こうでも不愉快な思いをするだろう。  利通は私の一族の斜向いに代々住んでいて、奇しくも私と同じ年だ。幼少期は親しく付き合いもした。その頃はまだ周りは田園地帯で、小学校からの帰り道にあぜ道でとんぼを捕まえたり、夏休みには近所の林に分け入ってカブトムシやクワガタムシを取ったものだ。しかし利通は家督を継ぎ、社員を多く抱えることですっかり変わってしまった。  代々造り酒屋を営んでいる我が一族と、運送や交易を行っている利通は、ともに地元での知名度は同程度だった。そのために近隣住民からすれば、道の名前がかわるならどちらの名前でもいっこう構わないようだった。私と利通の競争が始まった。街頭演説をし、どちらが優れた人物かアピールが始まった。選挙演説顔負けの選挙カー、ビラ配りに握手会、なんでもやった。その頃は道の競売に関しては公職選挙法のような法律がなかったからやりたい放題だ。次第に争いは激化してお互いの事業の範囲にまで及んだ。  はじめに禁忌を犯したのは利通のほうだ。その道沿いの運送料金を無料にしたのだ。それを知った近隣住民はこぞってインターネットショッピングをするようになる。私も指をくわえて見ているわけにはいかない。これに対抗するために思いついたのが酒の無料配布だ。もちろん道で配るわけにもいかないので私は「茂之」に相談した。  つくづく茂之という幼馴染を持ったのは幸運なことだった。茂之は私と利通と同じ年で、耕造通り沿いに小さな居酒屋「茂之」を持っている。女房と二人で切り盛りして、週末の夜に近所に住む親戚の女の子がバイトがくる程度の店だ。 「コウちゃんがうちの店に来るなんて珍しいね」  暖簾をくぐって店の中に入ると、料理をこしらえていた茂之が私を見て破顔した。幼馴染というのはいいものだ。私が子供のころなんてもう半世紀以上昔のことなのに、未だに子供時代と同じように私のことを呼ぶ。事情を説明すると「なるほどね、それでトシちゃんのところの運賃がタダなのか」としきりにうなづいていた。 「このままだと利通に負けちまう。どうしたらいい」  私が尋ねると、茂之は答えた。 「それならどうだろう、うちの店で出すコウちゃんの酒、全部タダにしたら?うちに来る客は地元の人ばかりだし、きっといい宣伝になるよ」  なるほどそれはいい考えに思えた。店は繁盛していて、その場で「コウちゃんのおごりだよ」というと周りの酔客が歓声を上げて喜んだ。口々に人々は私に礼をいい、私の肩を叩くものさえいた。思えば人に感謝されるのは久しぶりのことだったが、悪い気はしなかった。茂之は昔からいいやつだったが、ふとこいつもライバルになるのではないかと思えた。それで、「お前も道に自分の名前をつけたいと思わないのか?」と聞いてみると、カラカラと笑い飛ばしながら言った。 「道?道の名前なんかに興味はないよ。それに、俺、コウちゃんほど金もないしね。ほら、見てよこの狭い厨房。それに未だにこの鍋も新しいの買えずに現役で頑張ってるからね」  確かに茂之の指差した厨房の広さはうちの玄関よりも狭い。茂之は昔から無欲で人の喜ぶ顔が大好きだった。居酒屋「茂之」も近隣の店と比較すれば格安で、利益なんかほとんど出ていないだろう。私はいいパートナーを得たというわけだ。茂之の協力もあって、私は晴れて道の名前を「耕造通り」にすることができた。  まったくの偶然だが、じつは茂之もまた80歳で人生の幕を閉じた。小さな葬式会場で、会場の大きさは私のときの半分以下だったが、大勢の常連客が来た。湿っぽいのは嫌だから、と深夜まで弔問客が途絶えなかった。比べてみれば私と利通の葬式は会場こそ立派だったが静かなものだった。どちらも財産を遺したが、その相続争いで残された家族はぎくしゃくしている。「道なんてどうでもいいからもっと財産を遺してくれたらいいのに」と心無いことをいう親戚もいた。  私は今もこの耕造通りにいて道行く人々を眺めている。成仏できないとか言われるかもしれないが、私がそう望んだから私はここにいるだけの話だ。私は自分の人生におおいに満足している。ただ、人々は時折道の名前を間違える。「茂之通り」と言うのだ。茂之が死んでからも店は茂之の女房とその家族が引き受けている。  何度も言っているように、もちろん私は自分の人生におおいに満足している。だが、もしも生まれ変わるとしたら茂之のように生きてみたら愉快かもしれないと、ふとそう思うことがある。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!