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壮真君はきょとんと首を傾げる。
「え? だ、だって! 対局の時外すじゃない!」
「え? 僕、外してましたか?」
「無意識なの?」
どうやら、壮真君は自分の癖に気づいていなかったみたいだった。感心したように「亜美さんって僕の事よく見てますね」なんて頷いている。私だけじゃなくってみんな知ってることなのに。
「わかりました、約束します。もう亜美さん以外には絶対に見せない」
「……いいの?」
「はい、亜美さんのお願いですから。その代わり……」
壮真君が私の耳を食み、舌先でくすぐるように舐める。
「んぁ……っ!」
「亜美さんの、その可愛い顔を見せるのも僕だけにしてくださいね」
「壮真君以外に見せる相手いないよ……」
「それもそうか」
私たちは見つめ合い、今度は深く口づけを交わす。角度を何度も変えて、カレの唇が薄く開いた瞬間、私は舌を伸ばす。カレは一瞬驚いたように体を震わせたけれど、すぐに私のそれを絡めとった。息が上がってもカレは離してはくれなくて、まるで「もっと」と言わんばかりに強く私を抱きしめて、私を追い込んでいく。キスが深くなればなるほど粘膜は敏感になっていって、手だけじゃなく体中が熱くなっていく。もっとカレと近づきたい、その願いが伝わったのか、壮真君は唇を離した。互いの息が荒くて、熱っぽい。
「……いい?」
耳元で囁かれるその言葉に、私は頷いていた。
***
「……ドキドキしてきた」
あのプロポーズから数か月。それぞれの両親に挨拶もして、結婚式場も決めて、今は招待客のリストアップをしている最中……なのだけど、私の視線はモニターに釘付けになっていた。壮真君の両親にご挨拶した時よりも緊張していて、手には変な汗がにじみ出てくる。モニターには、壮真君の対局が映し出されていた。
あんなに忙しかったはずなのに、壮真君は順調に勝ち上がり、ついにはタイトル戦への挑戦者決定戦まで上り詰めていた。念願のタイトル戦出場、そして悲願のタイトル獲得のためには必ず勝たなければいけない一局。それは相手の棋士にとっても同じで、互いの残り時間もあとわずかになったとき、それは混戦模様となってきた。一手指すたびに大きく揺れ動く評価値、解説をしている先生方も「わからなくなってきた」と考え出すくらいに難しい状況らしい。私も目を離せなくなっていた。手をぎゅっと握り、祈りながらモニターを、その向こうにいる壮真君を見つめた。
「……あっ」
一瞬、壮真君の指が眼鏡のツルに触れた。その瞬間――カレはまるで余裕を見せるように、小さく笑ってみせた。いや、笑ったように見えたのは私だけだったかもしれない。そのすぐ後に、カレが一手進める。
それが、相手のミスを誘ったらしい。解説の先生方が「お」と反応し、評価値は一気に壮真君優勢と傾いていく。そうなったら、壮真君はもう間違えることはない。一手ずつ確実に――そして数手進んだところで、相手の棋士が深く頭をあげていた。
「やっ!」
もう夜も更けていた。大きく叫び出したいのを我慢して、私はそのままベッドに倒れ込み、枕に向かって「やったー!」と叫んだ。それと同時に私のスマホから通知音が鳴る。きっとおじいちゃんだ!
「なになに……『タイトル挑戦おめでとう。これからが大変だぞ』って、分かってるよ! もう!」
数週間後から始まるタイトル戦は日本各地で行われる。これからもっと忙しくなって、一緒にいる時間はもっと少なくなって……でも、私はカレを支えると決めたのだからワガママなんて言わない。その間、黙々と結婚式の準備を進めて、壮真君を楽させてあげないと。
対局室には待ち構えていた記者の人たちが詰めかけて行っていた。壮真君は簡単な取材に答えていた。私はごろりとモニター側に向かって寝返りを打つ。緊張から解き放たれた彼の表情は、とても晴れ晴れしているように見える。
『そういえば、最近、眼鏡外すのやめたんですね』
記者の一人がそんな事を壮真君に聞き始めた。そう、あのプロポーズの日以来、カレは約束を忠実に守ってくれている。カレのルーティーンが崩れたら良くない方向へ転がってしまうんじゃないかと不安になったこともあったけれど、その心配とは裏腹に、カレはいい方向へ突き進んでいった。
『あぁ……彼女、いや、奥さんになる人が「他の人の前で素顔見せないで」って言うので、やめたんです』
壮真君は私が大好きな柔らかな笑顔で、そう答えた。私の体は固まり、次の瞬間にはピシッとヒビが入る音が聞こえてきたような気がする。私は震える手で、恐る恐るSNSの確認をした。ハッシュタグで検索すると、初めは壮真君のタイトル挑戦を祝うものばかりだったのに……。
「……こうなるよね」
唐突なノロケと結婚宣言。その晩はずっと壮真君のダブルの祝福の嵐は吹き続けることになるなんて、カレは知らないまま過ごすに違いない。
「まあ、いっか」
そのエールも、私も受け取っていた。見守ることと送り出すことしかできないけれど、私はカレを支えていく。そしていつの日か、誰にも負けない大名人になってくれる日を夢見て――私は高鳴る胸を抑えながら、カレになんて言ってお祝いしようか悩み始めていた。
- fin -
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