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雨は、明け方まで降り続きました。
鈍い光が木々の合間に差し込む頃、キランはヴィーラを無理やり背に乗せ、洞穴を後にしました。
「夜の間は気付かなかったけど、きみ、きれいな肌だね」
キランは、なんと言われたかわかりませんでした。ルタが、夜明けを待たずに、単身出ていってしまったからです。
なぜ、ルタが去り際に『お前なんか、もう知るか!』と声を荒げたかも、キランにはわかっていません。ともかくヴィーラが石棒で示す方へ、キランは揚々と往きました。行く先にりんごの樹があると、思い込んでいたからです。
たまに道がわからなくなるたび、ヴィーラは石棒を放り投げ、落ちた時の切っ先の向きに任せるのでした。それが不思議と「たぶん合ってる!」のです。
時折、動物と出会すと、ヴィーラは石棒を槍のように扱い、わざと外すように投げつけて驚かせ、森の奥へと逃がすのでした。
キランはというと、道中でりんごの樹を見つけると、果実をもいではヴィーラに押し付けましたが、ただ食べられてしまうだけでした。ルタの不在が、今になって堪えます。
しばし歩いて、三本目の樹にやってきたキランは、ヴィーラから石棒を無理やり取り上げると、地面に落ちていたりんごを突き刺しました。
弾みで、キランの背からずり落ちたヴィーラは、りんごが刺さった石棒を前に困った顔をしました。
『突然どうしたんだろう。自分で走るより速いから、ここまで乗せてくれて助かったけど……とにかくありがとう、あとは自分で村まで走るよ!』
感謝の印に、キランの背を叩いたヴィーラが、石棒をりんごから引き抜いて歩きだします。そうなればキランも黙ってはいません。逃がすまいと、鼻をすかさず繰って、ヴィーラの胴に巻き付けました。
「こら、離してくれ! 長を説得して、狩りを止めさせなきゃ!」
焦るヴィーラの叫びと、悲痛な象の鳴き声が辺りにこだまします。
そしてもう一つ、徐々に大きくなる音がありました。大地に低く響く、無数の足音です。
『キーラーン!』
ルタの声です。キランが振り返ると、大勢の仲間たちが走ってくるのが見えました。ヴィーラが目を見張ります。
一人と一頭は、十数頭の象に一瞬で取り囲まれました。先頭を切ってやってきた、リーダー象の頭に乗っているルタが『何やってんだ、さっさと逃げるぞ!』と叫びます。
他の象たちも、口々に賛同しました。しかしキランは、ヴィーラを掴んだまま離しません。見かねたメス象が、強引にキランとヴィーラを引き離そうと近寄りました。
――ダーン!
銃声が響き渡り、メス象が膝を折りました。撃ち抜かれた足から、真っ赤な血が流れます。
その場の誰もが、弾丸が飛んできた方を見やりました。
「よくやった、ヴィーラ」
ライフルを手にした人間の男が、木々の合間から現れます。ヴィーラが、肩を跳ねさせました。掃討戦が、始まってしまっていたのです。
「父上! ……いえ、長!」
「昨夜から姿が見えぬと思ったが、先行して象どもをおびきよせていたとは」
男は、ヴィーラの部族の長であり、彼の父親でもありました。筋肉で出来た屈強な肉体を持ち、キランよりも大きいようです。
部族長は象たちに銃口を向けながら、ゆっくりと近づきます。狙う先には、キランの姿がありました。
「白き象よ。また、会えたな」
憎しみにたぎる一言でした。意味はわからずとも、キランは自分に向けられている声だと察しました。
「三年前、お前の母が、私の妻を殺した!」
その怒号に驚く様子を見せたのは、ヴィーラとルタだけでした。
「獣の出産になど、立ち会うのではなかった! まさか、産み落としたばかりの赤子を、母が踏みつけて殺そうとするとは、夢にも思わぬよな!」
三年前、キランの母は出産による痛みと出血のあまり、怒りと混乱で我を忘れていました。仲間たちも、うかつに近づけない有り様でした。
我が子を判別できず、なぶり殺しにしかけたところを、近くで様子を見ていたヴィーラの母が飛び出し、庇ったのです。容赦なく踏みつけられた体は、無惨な形に成り果てました。
「母親しか、あの場で仕留められなかった! おまえだけは無能な象どもが庇って逃がしたがために!」
かかれ、と部族長が号令をかけると、ライフルや弓矢を構えた青年たちが、どこからともなく現れました。キランの周囲にいる象たちは、なす術なくやられていきます。
すると、キランの鼻先から抜け出したヴィーラが両手を広げ、象たちを庇うように立ちはだかったのです。
「そこをどけ!」
「父上の話が本当なら、ぼくは、この象に殺されても仕方ないはずだ! 父上が、この子の母さんを死なせたんでしょ!?」
「先に危害を加えたのは象どもの方だ!」
「母さんが命をかけて守った子なのに、殺すなんて!」
言い争う親子を見て、ルタは好機だと思いました。人間たちの攻撃の手が、明らかに緩んでいます。
怯えきったキランを奮い立たせるため、ルタはこう言いました――『あのニンゲン、おまえの母さんがなんで死んだか、訳を言ってたぞ』、と。
『えっ、本当に?』
『ああ。落ち着いたら理由を教えてやる。まずはここから』
――ダーン!
再び、銃声が鳴り渡りました。キランはもう、これこそが「銃」であり、「母の命を奪ったもの」であり、「当たれば痛い」とわかっていました。
恐怖のあまり、つぶっていた目を、恐る恐る開きます。すると、ルタが土に沈んでいました。額を撃ち抜かれて。
生き残った仲間の誰かが、『死んだ』と言いました。キランはルタを鼻で揺すり、何度も名前を呼びました。でも、悪態ひとつ返ってきません。
「うるさいサルが、死なねば静かにならんか」
「父上!」
「次はお前だ、象め」
銃口を向けられても、キランはもう、不思議と怖くありませんでした。
足元に転がっていた、あの石棒を鼻で拾います。キランは、鞭のように鼻をしならせ、それを投げつけました。ヴィーラがしていたように。
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