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ゆらゆら揺れるササヤマさんの真っ黒な尻尾と、彼がじっと見つめる虚空を見比べて、日野はどうしたものかと思案する。
日野の住み始めたこの部屋は築十五年のアパートの二階、その角部屋だ。比較的新しい物件で風呂トイレ別、最寄り駅まで六分、ペット可という好条件。加えて近くにはドラッグストアとスーパーが合体したような店があって買い物も楽にできる。家賃もアルバイト代でなんとか賄える金額で、事故物件でなければ入居希望者が殺到したことだろう。
晴れて春から大学生となった日野には両親がいない。自動車事故で二人とも亡くなり、母方の親戚に引き取られたのが小学三年生の時。母とあまり仲が良くなかったらしい彼らに囲まれ、唯一の家族である猫のササヤマさんと肩身の狭い生活をしてきた。
両親の残した遺産はあまり多くはないため、学費以外の生活費は自分で稼がなければならない。奨学金とアルバイト代を駆使しても家賃に割けるお金はそれほどなさそうで、部屋として最低限の設備が備わっていればいいと考えていた日野は、事故物件であろうと入居をためらうことはなかった。見えない幽霊と生きた人間、どちらが怖いかと聞かれたら迷うことなく後者を選ぶ。
四月の中旬。夕方からは肌寒く感じることも多い時期で、カーテンの隙間から朱色と濃紺が溶け合ったような空が見えた。
ササヤマさんの金の目はじっと空中を見つめていて、日野は「動物には人間に見えないものが見える」という言葉を思い出した。恐らく、いやほぼ確実に、ササヤマさんには幽霊が見えている。
そう、この部屋には幽霊がいるのだ。
日野に霊感はない。しかし目の前でポルターガイストが起これば、目に見えないとしてもこの部屋の第三者の存在を信じざるを得なかったのだ。キッチンに置いていたササヤマさんの鰹節が勝手に床に落ちる。入れた覚えのない水の入ったコップがふよふよと宙に浮いている。フィクションの中でしか見たことのない現象に、日野はあんぐりと口を開けたまま固まってしまった。
契約時は真剣に聞いていなかったので後で調べてみたのだが、どうやらこの部屋では二十代の女性が自殺をしているらしい。就職したもののすぐに会社を辞め、そのまま部屋で首を吊ったそうだ。親しい友人もおらず家族とも不仲だったようで発見が大幅に遅れた、と日野が読んだ記事には書かれていた。
「うーん……」
腕を組む。この見えない幽霊をどうしたものかと考え始めて既に一週間が経っていた。
たとえ幽霊がいるとしてもこれほど好条件の部屋を手放すという選択肢は日野の頭にはない。その理由は家賃の安さだけではなく、幽霊が攻撃的ではなかったことも関係していた。ポルターガイストを起こす幽霊など積極的に人間に攻撃してきそうなものだが、今のところ日野はそういった被害を受けていないのだ。そうなると除霊をするのも無駄に思えてきてしまい、胡散臭い霊媒師に金をかけるくらいならササヤマさんにちょっといい猫缶を買ってやろうと、日野は薄気味悪フォントの使われたウェブサイトを閉じたのだった。
幽霊の生前を考えれば人を恨んでいてもおかしくなさそうだが、幽霊は日野に危害を加えない。そのちょっとした違和感から理由を知りたいと思い始めた。
何か幽霊と意思疎通をする手段はないものか。
ふと、机の上に置きっぱなしにしていたボールペンが目に入り、ひとつのアイデアが頭に浮かぶ。日野はすぐさま通学用のリュックサックからメモ帳を取り出して、ベリッと一枚破るとボールペンの隣に置いた。
「……あのー、幽霊、さん?」
日野はササヤマさんの目線の先に顔を向けた。浅く息を吸って、彼が見つめる虚空に声をかける。
「もしいるなら、返事して欲しいんですけど。よかったらそこの紙、使って下さい」
ポルターガイストを起こせるのならボールペンくらい簡単に動かすことができるだろう。そう思って声をかけた次第だった。
シン、と時計の秒針が時間を刻む音が室内に響き、日野は肩を落とした。やっぱり駄目か。苦笑してボールペンとメモ用紙を回収しようと手を伸ばす。
その時だった。
ササヤマさんがバッと振り返り、ほぼ同時にボールペンがひとりでに立ち上がった。サラサラと優雅な動きで紙の上を滑る。伸ばした手をそれ以上動かせず、日野はただ目を丸くして不思議な光景を眺めていた。
『こんばんは』
習字のお手本のような流麗な文字が紙面上に現れた。
幽霊はリョーコと名乗った。日野の予想通りこの部屋で自殺をした女性で、死後は部屋から動けない地縛霊のようなものになってしまったらしい。
声は聞こえているようなので彼女に筆談をしてもらって会話が成立した。
話を聞いているうちにわかったことがある。リョーコが起こしたポルターガイストに日野を驚かせようという意図はなかったようで、彼女の行動は全てササヤマさんのためだったらしい。
鰹節を浮かせたのはササヤマさんが食べたがっていたから。コップを浮かせたのはササヤマさんの水入れが空っぽだったから。生前に実家で猫を飼っていて、放っておくことができなかったのだとリョーコは述べた。
『うちの猫すごく可愛かったんです。真っ白な毛並みで、両目がルビーみたいに赤くて。本当に綺麗だったの』
生き生きとペンを動かして愛猫について語るリョーコ。こうしているとまるで普通の女性と会話をしている感覚に陥る。姿が見えずとも表情の明るさが伝わってきて、日野は彼女が幽霊だということも忘れて話に聞き入った。こちらも負けじと愛猫自慢をして、互いが満足するまで話をした頃には長針は時計を一周していた。
「あの、リョーコさん」
『なに?』
「俺たちこの部屋に住み続けたいんです。一緒に暮らしても大丈夫でしょうか?」
机の上いっぱいに散らばったメモ用紙をひとつにまとめながら日野はリョーコに問いかけた。
『もちろん!歓迎するよ!』
肯定的な返答に安堵して、日野は幽霊といえどリョーコは警戒をしなくてもいいと結論付けた。彼女がいると思われる方向に向き直って姿勢を正す。
「これからよろしくお願いします」
『こちらこそ、よろしくお願いします』
日野とササヤマさんと、それからリョーコ。事故物件の幽霊は日野の同居人へと変化した。
ササヤマさんの尻尾は終始、ゆらゆらと機嫌良さそうに揺れていた。
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