1人が本棚に入れています
本棚に追加
問題もなく、部屋での暮らしは穏やかに過ぎていった。
アルバイトで家を空ける時間が長い日野にとってリョーコの存在はありがたかった。ササヤマさんのご飯と飲み水の心配をする必要がなく、仕事中に何度も時計見てそわそわすることはなくなった。
特に五月の大型連休は稼ぎ時で、日野は連日休むことなく家を空けた。リョーコとふたりきりで大丈夫かとササヤマさんの心配をしたが、夜遅くに帰った日野が見たのはナニカに寄り添うようにしてうたた寝をするササヤマさんの姿だった。
リョーコと暮らし始めて変わったことがいくつかある。
大きな変化が食事だ。親戚の家にいる時は最低限の食事は出してもらえていたので良かったのだが、独り暮らしで使える金額が限られてくると自炊は必須になった。渋い顔で「米と塩、水があればなんとかなりますよ」とリョーコに言ったらおでこにペンが飛んできた。
料理が得意だという彼女に簡単なレシピを教わり、日野の食生活は変わった。キャベツともやしのお好み焼き、豆腐ハンバーグ、鶏ささみの煮物など。調理器具の扱いがおぼつかない日野でも簡単に、しかも安く作ることができるレシピをたくさん教えてもらった。失敗をすることはもちろんあったが、納得のいく仕上がりになった時の達成感が料理を楽しいと思わせてくれた。
そしてたまに、こんな事件もある。
「んー、もう少しか」
その日、日野は夕食にお好み焼きを作っていた。火加減を見ながらフライ返しを片手にうんうん唸っていると、ササヤマさんが足元にすり寄ってきた。日野は眉を寄せる。さっき構おうとしたら逃げていったくせに、猫とは本当に気まぐれな生き物だ。
「料理中だからあとに……っ!?」
ちら、と目を向ければその口に見逃せないものを見つけてしまい、日野は既の所で悲鳴を堪えた。
台所の悪魔と名高いヤツである。拾って来たのか、仕留めてきたのか。黒光りする油っぽい羽を見せつけるようにしてササヤマさんがらんらんと目を輝かせていた。褒めて、とでもいうように。
もちろんその場にはリョーコもいて、彼女は次の工程が書かれたメモを落としてボールペンを壁際まで吹っ飛ばした。日野がヤツを退治している間、リョーコはずっと部屋の隅にいたらしい。一般的には虫よりも幽霊の方がよっぽど怖いというのに、姿の見えない彼女の悲鳴が今にも聞こえてきそうだったから日野は思わず笑ってしまった。
退治に時間を費やしたせいでお好み焼きは焦げてしまい、次からは安全面も考えて火はちゃんと消そうと日野は心に留めた。それでもササヤマさんとリョーコと騒ぎながら作ったお好み焼きは裏面が真っ黒でも美味しく感じられた。
朝早く起きて大学へ行き、昼は授業を受けて、夕方はアルバイトへ。家に帰って家事と課題をこなし、一日のうちのわずかな自由時間にササヤマさんと戯れて眠りにつく。こういった日々が続いていくのだろうと思っていた。
リョーコとの出会いは青天の霹靂だった。寝坊して慌てて起こされるのも、大学での出来事を家で話すのも、寝る前に「おやすみなさい」と言ってから部屋の電気を消すのも、全て思い出の中にあるだけだった習慣だ。応えてくれる誰かがいる。それだけで心がぽかぽかと温かい。
偶然がもたらしてくれた幸せを噛み締めた。
ササヤマさんだけだと思っていた家族の中にリョーコが加わったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!