僕とササヤマさんと事故物件の幽霊

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 物音がする。  耳元で何かが落ちるような音がして日野は目を覚ました。まだ暗い。窓の外ではしとしとと雨が降り続く音がして、梅雨明けにはまだ遠いことを知らされる。その雨音の中に固い音が混じっていることに気づいた日野は携帯のライトを点けて周りを照らした。光の中に白い何かが飛び込んでくる。 『ササヤマさ あぶ ない』  線は乱れて形も崩れているが、寝起きの目でも読み取ることができた。 リョーコのメモだ。  嫌な予感に心臓が軋んだ。電気を点けて室内を明るくするとボールペンが部屋の隅をしきりに指していて、壁を向いてびくびくと肩を震わせるササヤマさんを見た日野の顔からザっと血の気が引いた。 「ササヤマさん!」  小さな背中に駆け寄って震える手で背中をさすった。どうやら嘔吐を繰り返しているらしい。床だけでなく壁にまで吐瀉物が飛び散っていた。  今までもササヤマさんが吐くことはよくあった。しかし今回はどうにも様子が違う。普段よりも長い嘔吐と苦し気なササヤマさんの顔に日野の思考が停止する。 『びょうい ん』  リョーコのメモが再び視界に飛び込んできた。びょういんの文字にハッとして、携帯を引っ掴み夜間営業をしている動物病院を検索した。電話をかけると幸いなことに今から診察を受けられることになり、未だ嘔吐を続けるササヤマさんを動物用のキャリーバッグに入れて日野は場所を確認した。距離はそれほど遠くない。  宙に浮いたペンが右往左往していた。一緒に浮いているメモには『だいじょ ささや まさん』と書かれ、他にも線が乱雑に散らばった言葉がいくつも見えた。 『わたし もいきたい』  新しく言葉が増える。速く書くことを優先して全てひらがなで書いてあった言葉に、不安げな表情で今にも泣きだしそうなリョーコの顔が見えた気がした。日野はリョーコの顔を見たことがないというのに。 「無理だよ。リョーコさんはここを離れられない」  小さく首を振る。地縛霊のような彼女はこの部屋から離れることができない。リョーコが一番知っているはずだ。 『それでも いきたい』 「俺が行ってくるからリョーコさんはここにいて。大丈夫だから」  ササヤマさんの容体は獣医に聞いてみないとわからない。それでも、ここでリョーコの頼みを了承してしまうと彼女はきっと付いてくる。地縛霊が縛られた場所から離れるとどうなるのか、嫌な予感が頭を掠める。 「行ってきます」  リョーコを振り切って、日野は深夜の雨の中に飛び出した。  一晩病院に泊まったササヤマさんを翌日の午前中に迎えに行くと、じっとりとした目で不満気に睨みつけられ、その回復っぷりに獣医と日野は声を上げて笑ってしまった。 「元気になったみたいで安心しました」  キャリーバッグから解放されたササヤマさんはご機嫌そうで、日野はリョーコに病院でのことを話しながらササヤマさんの背中を撫でる。  原因らしい原因はなく、しいて言えば年のせいだという事だ。猫の吐き戻しはよくあることで、老化による体の衰えから激しく吐いてしまったのだろうと獣医は言った。 「物心ついた時にはもうササヤマさんがいたからなぁ。よく考えれば、そういう年なのもおかしくないか」  背骨の形が目立つようになった背中は毛並みこそ変わらないが、以前に比べてずっと細くなっている。  しみじみと昔を思い出すように呟くと、リョーコのメモが日野の前にふわりと落ちた。『よかった』と落ち着きを取り戻した字で書かれている。 『日野くん』  まだ余白はあったがリョーコは用紙を変えて日野の名を呼んだ。 「どうしました?」 『何も言わなくていいから、少しだけ話を聞いて欲しいの』  メモに書かれた言葉に日野は彼女がいると思われる方向に向き直った。相変わらず美しい字だが、今日の彼女は普段と様子が違う気がした。  ほんの少しの静寂の後にペンが走り出す。 『昨日、日野くんが出て行った後、思ったの。この部屋ってこんなに静かだったっけって。雨の音だけがずっと耳に付いて、ちゃんと音は聞こえるのに静かで静かでたまらなかった』  カーテンの向こうから日が射して室内を照らした。昨日とは一変して空にはさんさんと太陽が輝いている。 『実体があればよかった。そうしたら私はふたりに付いていけた。』  新しいメモ用紙をリョーコが引き寄せた。 『私ね、ふたりとも大好きよ。たった三ヶ月だけどふたりと暮らせて、生きていた頃以上に楽しいの。弟がふたりできた気分。でもね、だから怖いと思ったの。ふたりとずっといられる保証はないんだって。私はここから動けないから』  メモ用紙が新しいものに変わる。リョーコのペンが震えながら紙の上を滑っていく。 『怖いの。もうひとりはいや』  絞り出されるようにして綴られたリョーコの本音に日野は唇を噛んだ。  病院への道中、日野はずっと怖かった。ササヤマさんがいなくなってしまったらどうしよう。キャリーバッグの中の小さな家族から命の灯が消えてしまったらどうしようと、嫌な想像ばかりが頭の中をぐるぐる回った。  日野は無事に病院についてササヤマさんの状態を知ることができたが、リョーコはどうだろう。日野はリョーコに「無事に病院に着いた」、「ササヤマさんは大丈夫だよ」と伝える手段を持たない。もし日野が事故にでも遭っていたら、何も知らないままリョーコはまたひとりに戻るのだ。  部屋から動くことができない、地縛霊だから。 『死ななかったらふたりと出会えなかった。でも、生きていればよかったって思ったの』  かける言葉が見つからず日野が口を閉ざしていると、リョーコがペンを置いた。聞いて欲しい話は以上で、もう言葉を綴るつもりはないようだった。  何も言えない自分に日野はテーブルの下で拳を握った。爪が食い込んで痛みを感じたが、それ以上に心の方がじくじくと痛んだ。  その後、リョーコは何もなかったかのような態度で昼食にしようと言った。時計を見れば十二時過ぎで、タイミングよく日野の腹がぐう、と鳴る。こんな気分でも腹は減るのかと唇を強く噛み締めた。  夜になっていつものように「おやすみなさい」と言って電気を消した。それが最後だった。  次の朝、テーブルの上に『さようなら またいつか』とメモ用紙を残して、リョーコは消えてしまった。
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