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段ボールに全ての荷物を詰め終り、日野はぐーっと両腕を組んで天井に伸ばした。
明日、この部屋を出ていく。四年間というのはあっという間で、日野は今年から新社会人として新たな生活に飛び込むのだ。
窓の外を眺めて聞こえてくるの鳥さえずりに耳を澄ました。おそらく春の鳥だろう。姿は見えないが、うららかな春の日にふさわしい穏やかな鳴き声が鼓膜を揺らした。
ぐうと腹の虫が鳴る。時計を見ればもう昼過ぎで、空になった胃が食べ物を寄越せと主張していた。いつもなら簡単にお好み焼きでも作ってしまうのだが、あいにく料理道具は全て段ボールに詰めた後だった。コンビニに行こうと日野はポケットに財布と鍵を突っ込んで玄関に向かう。
ドアを開ければうっすらと花の香りを乗せた風が室内に吹き込んできた。その香りに気をとられてドアを開け放っていると、足元にササヤマさんがすり寄ってきた。
「あ!」
気づいてドアを閉めた時にはもう遅く、ササヤマさんは日野から離れて弾丸のように外に飛び出してしまった。階段を駆け下りる軽やかな足音が徐々に遠ざかっていく。
鍵もかけずに日野は急いで後を追う。一階に降りて周囲を見回せば、思ったよりササヤマさんは簡単に見つかった。アパートの敷地の隅に植えられた小さな桜の木。ササヤマさんはその根元に座って満開の桜を見上げていた。
「にゃーん」
歩みを進めるとササヤマさんが振り返って日野を見つめた。揃えられた前足の先に段ボール箱が置いてある。
中を覗いてみると、そこには手のひらに乗りそうなくらいの真っ白い小さな子猫がみぃみぃ鳴いていて、思わず日野は息を詰めた。
ササヤマさんが子猫に向かって鳴くと、その声に反応するように子猫は小さな口を大きく開き、高い声でみぃと鳴いた。日野は引き寄せられるように、目も開いていない子猫を抱き上げた。片手に乗るほど小さく、羽のように軽かった。
メモ用紙とペンよりもはるかに重い体。その小さな心臓が生きるために懸命に鼓動している。
子猫がまた「みぃ」と一声鳴いて、日野の手の平に頬を擦り寄せる。ふわふわした子猫の体温が小さな体から自分の全身に伝わっていくような心地がした。その温度に日野の涙腺は緩み、視界が滲み始めた。
「にゃーん」
ササヤマさんが一声鳴いた。彼の金の目は穏やかな色をたたえていて、子どもを見守る親の顔を連想させた。あの日から日野もササヤマさんも四つ年をとった。
日野は微笑んで手の平の子猫をひと撫でする。
「おかえりなさい」
桜の花びらがササヤマさんの背中に舞い落ちる。ササヤマさんはそれらを気にも留めず、日野と子猫を先導するようにアパートの二階へと向かって優雅に歩いていく。
真っ黒な尻尾がゆらゆらと揺れていた。
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