あしびきの山鳥の尾のしだり尾の

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『ごめん、今日も残業になりそうだから先飯食ってて。帰れないかもしれないから、オレの飯はいらない』 「……またかぁ」  夫からの連絡が来たのは、ちょうど食事を作り終えた後だった。  ここ数日、彼は残業や上司との飲み会で帰りが遅くなることが多かった。しかし、今日こそは定時で帰るという今朝の宣言を信じて二人分の食事を作ってしまった。今思えば、なんと愚かなのだろう。あの宣言をされたのは今日で五回目だった。  余ったご飯はどうしよう。明日の朝に食べてくれるかな。いや、帰ってこないかもしれないし私が食べなきゃいけないよね。久々に一緒にご飯を食べられるかもしれないと期待してトンカツなんて作るんじゃなかった。朝からこんなにボリュームのあるものは、胃が小さい私は食べられそうにない。夫は朝でも夜でもいっぱい食べてくれるからと多めに作ってしまった自分に、呆れてため息が出る。  奮発して買ったお肉で作った大きなトンカツを切り、三切れだけ自分の皿に乗せる。ご飯と味噌汁とサラダをよそい、同棲を始めた時に買ったお揃いのコップのピンク色の方に水を入れて、それらをテーブルの上に乗せれば一人分の食卓の完成だ。 「いただきます」  ポツリと呟いたその声は、つけっぱなしにしていたテレビの賑やかな声にかき消された。前は、テレビを消しても彼が楽しそうに話してくれる声で部屋が満たされていたのに、今はどんなにテレビがうるさくてもどこか虚しい。  いつも彼が褒めてくれるご飯も、今日は気合を入れて作ったのに、不味く感じてしまう。否、最近の食事はどれも美味しいとは言えないものばかりだった。 「ごちそうさまでした」  なんとか全部食べ終えて、洗い物をしてお風呂に入る。ソファに座ってお互いに髪を乾かし合ったこともあったな。それはどれくらい前のことだったか、もう覚えていない。同棲している間はいつもやっていたのに、結婚してからその機会はどんどん減っていったような気がする。  寝よう。  ごちゃごちゃ考えたところで彼が帰ってくるわけでもない。今は早く寝て気分を切り替えないと。  図太くなったな、と彼によく言われるけれど、それも仕方のないことだ。  高校時代、私は一度彼に告白してフラれた。あの頃の私は引っ込み思案で、いつもおどおどしていたから、フラれても仕方ないだろう。気持ちの切り替えは早い方だったから、フラれた後一度泣けばその後は彼の前でも普通に接することができた。しかし、どんな気持ちの変化か彼は数ヶ月後私に告白した。信じられなくて、訳もわからないまま泣きながら頷いたのは懐かしい思い出だ。  けれど、彼は昔からとてもモテていた。相貌が良く、性格もさっぱりとしていて女子からの人気が高かったのだ。だから彼と付き合っている私に嫉妬した女子たちからの嫌がらせは多かった。それを受け流しているうちにいつの間にか図太くなっていたから、実質彼のせいと言えるだろう。  でも、彼はあの頃の私の方が好きだったのかもしれない、と最近思う。  突然帰りが遅くなることが増えたし、元々女性からの人気が高くて結婚した今でもよく職場の女性に言い寄られていると聞いた。  不倫。  その言葉が脳裏によぎることに、もう罪悪感を抱かなくなった。  まだ怖くて証拠を探すには至れていないけれど、こうして一人で家にいることに苦しむのにも疲れてしまった。  暗い気持ちで寝室に入って目に入った時計が示した時刻は、二十三時四十八分。あと十二分で、日付が変わる。  今日は、本当は特別な日だったのに。お祝いできたら、なんて考えていたのは私だけだったのかな。  ベッドサイドの棚の一段目を開けて、そこに入っていた小さな箱を取り出そうとした時、隣に入っていた本に目が向いた。  久しぶりに手に取ったそれは、百人一首の歌集だった。  私は昔から和歌が好きで、さまざまな歌集を買っては何度も読み返していた。だから、この歌集に書かれた歌も、その解説も全て頭に入っている。  懐かしい。この本を手に取ったのは何年振りだったかな。  そう考えながらパラパラと捲っていると、あるページで手が止まった。 『あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む』  山鳥の尾の、長く長く垂れ下がった尾っぽのように長い夜を想い人にも逢えないで独りさびしく寝ることだろうか。  秋の夜長に恋人に会えない寂しさを、山鳥の尾の長さに喩えて詠った詠だ。  昔の女性は、男性に自ら会いに行くことを許されず、寂しさに耐えて待つことしかできなかった。彼女たちの寂しさに比べれば、私の寂しさなんて大したものでは無いだろう。でも、もしかしたら、彼女たちもこうして暗い夜に想い人を待っていたのだろうか。一人でいることが寂しくて、涙を流す夜もあったのだろうか。  気づけば、頬を涙が伝っていた。  会いたい。あの人に会いたい。  早く、今すぐ、あなたに会いたい。  一度思ってしまえばそれは止まらなくて、涙と共に寂しい気持ちがポロポロと溢れてきた。   「桔梗?」  その時、後ろから聞き慣れた声がして。  驚いて振り返ってみたら、そこにいたのは今まさに会いたいと求め続けていた夫、白田裕二くんだった。 「裕二、くん? なんで?」 「遅くなるって言っただろ。でも、どうにか間に合ったな」  涙で視界が歪む中でも、裕二くんがにこりと笑ったのが見えて首を傾げていると、裕二くんは鞄から四角い箱を取り出して私に差し出した。  これは何かと問うまでも無い。見覚えのある、青いベルベットの箱。 「これ……」 「ほら、今日じゃないと意味ないだろ? 結婚記念日なんだし」  そう。今日、十一月二十二日は私たちの結婚記念日だ。毎年欠かさずお祝いをしていて、今年もそのつもりだったけれど、裕二くんが今朝バタバタと出掛けてしまったから、今年はもう祝えないのだと思っていたのだけれど。 「寂しい思いさせてごめん。もう今日で区切りついたから、明日こそは定時で上がれるぞ」  そう言って頭を撫でてくれる手は、優しさに溢れていた。  裕二くんは、昔から人の心の機微に敏い。私が考えていることなんて、ずっとお見通しだったのだ。 「わ、私こそっ……ごめん、なさっ」 「いいよ。これだけ遅くなることばっかりだと疑いたくもなるだろうし。けど、断じて不倫なんてしてないからな」 「うんっ」 「それより、箱開けてみて」  そう促されて開けた箱の中には、ピンクゴールドの指輪が収まっていた。 「桔梗らしいかなと思ってさ。ほら、手、出せよ」  そう言いながら左手を取られ、付けていた結婚指輪の上にもう一つ指輪が重なった。 「やっぱり、桔梗はこの色似合うよな」  私の手を握って笑う裕二くんに、私も思わず笑った。  あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長き夜君と会えば愛しく。  山鳥のしだり尾のように長い夜も、大切な人ともう一度会える時間なら私は愛おしいと思えてしまうの。
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