20年ぶりの再会、君は少女のままの姿

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
   まもなく日付が変わろうとする深夜に、何者かがインターホンを鳴らし、俺のアパートを訪ねる者がいた。  こんな夜更けに、いったい誰なんだ?  独り身の俺に訪ねる者などいるはずもなく、ましてやこんな真夜中に。  スーパーの値引き惣菜をつまみに、缶ビールを飲んでいた俺は、不審に思いドアを眺めたまま無視をする。  だが、まるで俺が必ず出てくるのを知っているかのように、二回三回とインターホンが鳴り響い続き、さすがに近隣住人に迷惑だと感じ重い腰を上げた。  いったいどんな無礼人だ?   犯罪がらみの不審者なのか?  怪しみながらも、扉の覗き穴越しに外の様子を確認する。  するとドアの外には……  どの予測も外れた、まさかの人物が立っていた。  一人の少女。  こんな時間に高校指定のブレザーの制服を着ているその姿は、20年前に別れた彼女と同じ姿だった。  首元に赤いリボンと、膝上まで裾を上げた青いチェック柄のプリーツスカート。  胸元まで真っすぐ垂れるセミロングの黒髪。  ――芽衣(めい)――  記憶の片隅に隠され、ホコリまみれになった懐かしい名前を、俺は自然と呟いていた。  ほろ酔い気分のまさに夢心地だった俺は、その姿にし驚愕し、顔から血液と共にアルコールが引いていくのが分かった。  誰かのいたずらか、幽霊なのか。または夢でも見ているのか、見間違いか、よく似た別人なのか。  様々な疑問が飛び交い、結論を出す前に手が先に動きドアを開けていた。 「芽衣!?」 「久しぶり……また会えたね」  同じだった。  顔も、  声も、  体格も、  表情も、  口調も、  仕草も、  記憶の奥深くの片隅へと追いやった、あの頃の芽衣の姿と目の前の少女とが、全てが一致した。  18歳の冬に別れた、当時のままの姿。  それがなぜ時を超えて、今ここに……?  あまりの突然の再会に、無言で立ち尽くしていた俺にしびれを切らしたのか 「上がってもいいかな?」  と馴れ馴れしく、あの頃の関係のように話しかけてくる。 「あ、ああ」  俺の返事を聞くやいなや、遠慮なしに脇を通り過ぎては、まるで自分の家かのように靴を脱ぎ上り込んで行く。  かつての学生時代の彼女との、突然の再会。  しかも相手は、別れた当時のままの姿。  トラックにでも跳ねられたかのような衝撃を受けた俺は、その場で立ち尽くし、必死に乱れた思考を整えようとする。  なぜ今?  その姿は?  どうして俺の場所が?  今までどうしてたのか?  こいつは本当に?  様々な疑問が交差し渋滞を引き起こすが、それ以上に胸を弾ませる喜びという感情が、心の奥底から蘇ってくるのがくるのが分かった。  そんな困惑しているであろう俺の表情を見た芽衣は、からかうように笑う。  勝手にテーブルの奥にちょこんと座ると、じーっと俺が何かを質問してくるのを待っている様子で、まっすぐこちらを見ながら様子をうかがっていた。 「まぁ、酒でも飲むか?」  とっさに絞り出した第一声がそれだった。  20年ぶりに再会した元彼女に尋ねる内容ではなかったと、言ってから後悔する。 「お酒は好きじゃないんだ」  見た目はあの時のままの高校生のような姿。  未成年なのか?  しかし、本来なら芽衣と俺は同じ学年の、同い年。  なら今年38歳のはずだ。  しかしそこに座る芽衣は、まだあどけなさを残す少女とも女性とも言えない、高校生特有の体つきをした彼女だった。  なにより20年前に別れてから一度も会っていないのだから、その後の芽衣の成人した姿は知る由もない。 「じゃあ、コーヒーでも飲むか?」 「コーヒーは苦手だって、知ってるでしょ?」  動揺して同僚に話しかける常套句のコーヒーを進める言葉を、つい口走ってしまった。  だが芽衣は、その質問に対し的確に返答してきた。  そう、芽衣は、コーヒーが苦手だった。  本物……なのか?  必死で過去の遺物となった芽衣の好みや嗜好を整理し出す。 「そんなに私のこと、ジロジロ見て、なんかおかしい?」 「おかしいもなにも……」 「ねぇ、久しぶりに会ったのに、なにも聞かないの?」 「ああ、すまない。あまりの突然のことで……」 「色々と聞きたいことあるんじゃないの? 今までどうしてたのかとか、なんで今頃とか? 身体の具合は、とか?」 「お前は本当に芽衣、なのか?」 「そうよ。ほかに誰に見えるっての?」  人を小馬鹿にしたような口の利き方。  でもそれは親しみをこめた愛情の裏返し。  このやり取りの感じは、学生だった頃の関係を思い出させてくれる。  なにより、きつい言葉とは裏腹に、口角を少し上げ、目じりを下げて、うっすらと微笑みながら話す、その表情は……  俺の知っている、芽衣そのものだった。  ではこの目の前にいる人間は本物なのか?  なら何故、あの時別れたままの姿で、今さらになって俺の目の前に現れたというのか? 「お前はどうしてた……」 「まずはその呼び方! お前じゃなくて、芽衣でしょ」  たしかに学生時代はお互いを名前で呼んでいた。  俺は芽衣と呼び、芽衣は俺のことを悠人(ゆうと)と、呼び会っていた。  信用してよいのか、それとも悪戯の類なのか。  心の中は疑心暗鬼、信じる信じないの半々だった。 「……なんで別れた?」 「ごめんね」 「急に俺の前からいなくなって。今頃になって」  目の前にいる少女を尋問するかのように言葉をかける。 「変な男に騙されたっていうか……私の見る目がなかったんだよね。あんな奴に惚れちゃって」 「俺よりもあいつを選んだんだろ」 「後悔してる。私が間違ってたんだ。こんなの都合いいよね。勝手に出て行って、また急に戻って来て。怒ってるよね」 「……別に。もう過去のことだ」  怒ってはいないというと、嘘にはなる。  当時は本当に怒りのあまり、眠ることが出来ないくらいだった。  しかし、こうやって目の前に現実に再び現れ話せたことで、懐かしさと喜びとが怒りの負の感情より勝って、どうでもよくなっていた。  しかし疑惑が解消されたわけではない。  喜びはしたが、どこかでこれは嘘なのではないかという疑念は、完全には払拭されてはいない。 「……で、今さら何しに来たんだ?」 「あのね、言い難いんだけどさ。今、住むとこ、ないんだ。ここに住んでもいい?」 「そんな、未成年と……」 「私が未成年なわけないじゃん。今年、38歳でしょ? 同い年なんだから」 「そうだが、お前どう見たって……」 「老けたね。というより年相応かな?」 「うるせーな」  誤魔化すように、俺の質問を言葉で被せてはぐらかせてくる。 「相変わらず昔のまま、カッコいいけどね」  そう言って、無邪気に笑って見せる。  その笑顔は、瓜二つ……というよりも俺の記憶が正しければ同一だった。 「とにかく一つ屋根の下で寝るっていうのは」 「合意の上だから問題なくない?」 「だがな! いきなりすぎるだろ? こんな時間に……」 「いきなりこんな時間にやって来ないと、追い返しちゃうでしょ?」  確かに、芽衣の言う通り、言い返せなかったであろう。こんな時間に、高校生の格好をした女を外へと追い出すことなどとは。  この子は俺を知り尽くしていた。 「それに……」  さらに少女は伏し目がちに続ける。 「あの時、約束しなかったっけ? 将来一緒になろうって?」 「は!?」  そう言って左手を上げ、これ見よがしに薬指にはめた、なんの飾りっけもない銀色の指輪を見せつける。  それは……紛れもない俺が渡した指輪だった。  ある休日に二人でデートに行った時のこと、とあるショッピングモールで俺がその場の勢いで買ったものだった。  そしてその時に渡したのが、この指輪だった。  別段、高価なものではない。  その辺のショップで売っている安物のおもちゃのようなものだ。  それでも当時の俺にとって1ヵ月分のバイト代と引き換えに、手に入れた代物だ。  そんな子どもだましの指輪でも、芽衣は大層喜んでその場でつけてくれて……  それを今でも持っているということは……  信じていいのか?  本物なのか?  お前は本当の芽衣なのか? 「でも、もとはと言えば私が、先にその約束を破ったんだよね」  後悔で唇をかむようにつぶやく。  たしかに将来一緒になろうという言葉は、若気の至りで口にはした。  ただ、あの時は本気だった。本気で心から愛していたのだ。高校生という、世間も愛も何にも知らない青二才が、その場の雰囲気で口にした戯言とみられるかもしれないが。  だから俺は高校を卒業し、俺は大学に進学し、安定した職に就くまで結婚は待っていてくれと話した。 「もう、あの男とはとっくの昔に別れたから。私が馬鹿だったんだ。だから……もう一度やり直してくれるかな?」  身を乗り出し、目を潤ませ懇願する芽衣。  もう一度やり直す。  その魅惑的な言葉は、俺の停まった時間が再び動かし、この腐った人生をやり直せるような気がした。  あの頃経験した、とっくに掻き消えてしまったと思った恋という炎が、再び燃えがるのが分かった。 「まあいい。とりあえずもう遅いから、今日は泊まってい……」 「やった―― ありがとう!!」  そこには、なんの穢れもない純粋に笑う少女がいた。 「この布団、使っていいから」 「私が使ったら、ないじゃん」 「俺はこのソファーで寝るからいいんだ」 「一緒に寝ればいいじゃん」 「ダメだ」  それはダメなような気がした。  ――翌朝、  俺は香りのよいコーヒーの匂いで目を覚ます。  芽衣が先に起床し、すでに入れておいてくれたようだ。 「おはよー」 「おはよう」 「朝ごはんは作ってないけどいいかな? 悠人は食べないでしょ?」 「まあ、なにもって食べない、ってわけじゃないが」 「はい、コーヒー」 「ありがとう」 「砂糖少々でミルクたっぷり、でしょ?」 「あ、ああ」  ひと口カップから流し込み味見する  甘さと苦さ、ミルクの比率と温度。  完璧だ。100点満点だ。  俺の好みの味だった。  20年も会っていなかったのに、よく俺の好みを覚えていたものだと感心する。  芽衣が持ち込んできた荷物は、大きなリュック一つだけだった。それを部屋の隅に置いて、中身の仕分けをしていた。  俺はそれを横目で見ながら、出社の仕度をする。 「仕事、行ってらっしゃい」 「お前は学校は?」 「なに言ってんの? もうとっくに卒業したじゃん」  そう言って気持ちよく笑って見せる。 「そうだったな……じゃあ、行ってくる」 「いってらっしゃい!」  勤務中、頭の中は全て芽衣のことで充満していた。  早く仕事を終わらせて、家に帰りたい。 珍しくそんなことを心の中で思ったりもする。  まさか終業がこんなに待ち遠しく感じることがあるとは。  いつもはコンビニなどで寄り道をしていく俺は、その日は真っすぐに帰宅する。 帰ってくると、すっかり夕食の仕度がされていた。 「おかえり」 「ただいま」  今まで帰宅しても暗闇で無言だった一室から、暖かい光と明るい声が返ってくる。 「冷蔵庫の中身、勝手に使わせてもらったよ」  俺は久し振りに温かい食事を口にすることが出来た。食事も俺の好みに合った物ばかりが並んでいた。  ああ、こいつは芽衣なんだな。と実感した。 「芽衣、なんで部屋ん中でも制服なんだ?」 「あんまり部屋着とか持ってないから」 「今度の休みにでも服を買いにでも行くか?」 「やった! 行く!!」  俺と同じ年とは思えないくらい、若々しい見た目通りの10代の子のような反応を見せる。  青春が戻ってきたようだった。  凍り付いた時がようやく春を迎え、動き出したかのように。  それは楽しさという蓋で、疑問や不安を見えないようにしているだけ。それは自分でも自覚はしていたが、芽衣の正体が判明してしまったら、ここから去って行ってしまうような、そんな恐れがあったからだ。  俺は再び彼女に、年甲斐もなく恋をしていたのだ。  そして二人の生活が始まった。  あの頃を思い出すかのように。  止まった時間を再び動かす。  失った時を取り戻すかのように、がむしゃらに、貪欲に。  過去はどうだっていい。  正体がなんだろうとかまわない。  深く詮索するつもりはなかった。  休みの日は二人の思いでの地を回った。  20年というお互いのブランクを埋めるかのように。  町を一望できる丘の公園。  煌めくネオンの夜の繁華街。  安い料理で一日中いたファミレス。  驚いたことに、俺が忘れていたことまで芽衣は克明に記憶していた。 「ここでよく買い食いしながら帰ったよね」とか「ここの本屋で、よく待ち合わせまでの時間を潰したね」など。 まるで青春時代が戻ってきたかのように、毎日を謳歌していた。   「ただいま」  ある日俺が仕事から帰ると、芽衣は食事の準備中に居眠りをしてしまっていた。  ソファーに横たわったまま静かな寝息をたてている。  寝息と共に、どこからともなく懐かしい曲が流れてくる。  どうやら芽衣のイヤホンから漏れ出しているようだった。スマホで曲を聞いたまま寝落ちしてしまったらしい。  俺はイヤホンを摘まみ上げ耳にあてる。  この曲は俺たちが学生時代に流行った曲だった。よく放課後、芽衣と二人でイヤホンを左右分け合いながら同じ曲を聞いていたりしたものだった。スマホの画面には懐かしい曲の一覧がいくつも並んでいた。  しかし俺はここで一つの違和感を覚える。  最近の曲が一切入っていないことを。  それだけではない、これは全て20年前の曲で、それ以降のものは一つも入っていないのだ。  芽衣は流行歌には敏感だった。いつも最新の歌をチェックしていた。  俺の脳内で悪魔がささやく。  今ならこのスマホの中身を見ることが出来る。ロックが外された状態なら。  そして俺は……  誘惑に負けてしまった。  通話履歴やアドレス帳を確認するが、一切を消去したのか、なにも残っていない。  では、写真は?  アルバムを確認していくと、最近出かけた場所や、俺との写真、料理の写真、古いものでは高校時代のもので占められ、不審なものは見つからなかった。  というより、別れてから俺のもとへとやってきた来た間の20年間の記録が全く抜け落ちていた。 これは意図的に消した以外は考えられなかった。不都合な記録だから……  いや……たった一つだけ、この間に撮られた画像が残っていた。  今から18年前の日付。  その写真は……  一人の女性が赤子を抱いている画像だった。  その女性には見覚えがあった。  あの頃の、あいつの面影が……  しばらくの間は、写真のことは聞かずに過ごしていた。  芽衣の様子は変わらない。  俺も努めてそのように振る舞う。  しかしその不安は徐々に膨らんでいき、俺を押しつぶすくらいの大きさとなり、体を蝕み痛みを伴うようになってきた。  それは表情に隠すことが出来ないほどに。  そしてついに、夢から覚める時がやってきた。 「ねえ、悠人」  夕食後、一人ソファーのもたれかかる俺の横へ、洗い物を終わらせた芽衣が音もなく座る。 「どうした?」  顔を合わせることなく、正面を見据えたまま、抑揚のない声で尋ねてくる。 「いつ頃から気がついたの?」  芽衣は、俺の些細な変化を見逃さなかった。 「完璧に演じてたつもりなんだけど、何か変なところでもあったかな?」 「いや、芽衣は芽衣だった。俺も全然分からなかった。ただ……」 「ただ?」 「わるい、芽衣のスマホを覗いた時があってな……」 「……」 「あの写真……」 「……」  若さと活力に満ちていた瞳は色を失い、濁った虚ろな瞳へと変わる。  舞台は終わり、暗幕を下ろしたかのように、表情から明るさが抜け落ちていった。 「あの写真は、母と私です」  不思議と心は落ち着いていた。  衝撃の事実を聞かされても、その言葉はストンと胸の奥へと音もたてずに落ちていった。 どこかで納得していたのであろう。 20年前に別れた彼女が、当時の姿のまま訪れることなど、有り得ないことだと。 芽衣は淡々と語る。 「母は悔やんでおりました。あなたと別れたことを。  毎日、後悔と自責を繰り返し、謝罪の言葉ばかりを口にしてました。  別れたことにより、あなたが受験に失敗したこと。将来の夢や希望を断たれ、進学を諦め職に身を投じたこと。  自分に自信が持てずに交際相手もいないこと。一人孤独にアパート暮らしをしていること。母は全てを調べ、知っていました」 あいつは、俺への贖罪で毎日を過ごし、俺のことをいつまでも想っていた。  それに対し俺は、あいつへの恨みやら怒りで身を滅ぼし、記憶から消そうとしていた。   「ならなぜ、会いに来なかったんだ?」  「あなたに合わせる顔がないと……だから『あなたがが私の代わりに悠人を幸せにしてあげて』と」 娘は親の代わりをさせられていたのだった。 「私は生まれた時から、母からの期待で芽衣という少女になるというと宿命を背負っていました。  母と同じ仕草を身につけ、口調、言葉遣い、思考パターン、興味も性格も。毎日毎日練習し、さらに母の生い立ちから経歴、記憶や思い出までもを叩きこまれました。 あなたの記憶に残る芽衣に、一寸の狂いも無いよう演じられるように」 「そんな贖罪の方法があってたまるか」 「私の人生は、母の18歳までの人生そのもの。母が成しえなかったあなたとの幸せな生活を私が成就させる。それが母の願いでもあり、私の生きがいそのものなのです。 母の所持品を引継ぎ、私の身分が分かるものはすべて処分してきたつもりでしたが……  あの写真だけは、消せませんでした。私と母とが共に生きていたという証明。  私が今後、芽衣として生きていくと母の存在は消滅してしまいます。  そうならないためにも、あの写真だけは残しておきたかった」  少女は淡々と続けて語る。 「母は素行の悪い男に騙されてついていきました。母が言うには、あなたは優しすぎたと。  無知で幼かった母は、刺激やスリルが欲しかったのだと、後ほど深く後悔してました。  あなたに大切にされていたのは自覚していました。楽しく幸せな日々だったとも語っていました。  しかし時には、自分を強引にでも連れ去ってもらう勇気が欲しかったと」 「あいつは、芽衣は今どうしている?」 「2年前に死にました」 「……そうか」  分かり切っていたことだが、その暗く沈んだ言葉は俺の心に重く暗い影を落としていった。 「あの男と同居してからというもの、暴力を振るわれ、金をせびられ、母は日に日に衰えていきました。  もし仮に、あの頃の母に会ったとしても、きっとあなたは気付かないと思います」 「父親は?」 「私が生まれる前に、すでに事故で他界しました。無責任にも全てを置き去りにして、その男は一人勝手に逝きました」  なんて愚かな女なんだ。  自分を責め、その償いを実の娘にとらせようとは。 そして俺自身の不甲斐なさを嘆いた。  別れようと切り出したとき、諦めずに引き戻していれさえすれば。  俺も、あいつも、この子も、こんな人生ではなかったはずなのに。 「母は最後まであなたのことを思っていました。そして全てを私に託して…… そんな母を、どうか許してあげてください」 「許すもなにも……ただお前の人生が」 「私には、もう何も残されてません。父も母も、暮らす場所さえもない。  私にあるのは、繰り返し語ってくれた母とあなたの楽しかった思い出のみです」 「これからどうするんだ?」 「ここで暮らします」 「それは俺が決めることだ」 「母は語っておりました。悠人は優しい人だと。正体がバレたとしても、彼はきっと黙って助けてくれる。そういう人だと……」  本当に芽衣は、どこまでも俺のことを知り尽くしていた。 「私にとっては、あなたに尽くすことが全てです。それが母の弔いにも、あなたの幸せにも、私の存在価値にもなります」 「お前はお前の人生を歩め。母親の呪縛から自由になれ」 「私、憧れてたんですよ。 母が楽しそうに語る物語のヒーローのようなあなたに、いつしか私も惹かれて……」 「その感情は単なる錯覚だ。それに俺はヒーローなんかじゃない。一人の女性を幸せにすることも……」 「じゃあ、今度は私を幸せにしてください」 「お前を?」  そのあどけない顔でウンっとうなずく。 「私は今まで母の分身、芽衣として歩んできました。これからは、私として……」 「……そういえば、君の名前は?」 「結衣(ゆい)です。結ぶ衣と書いて、結衣です」 「そうか結衣か、いい名前だ。よろしくな、結衣」 「はい!」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!