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初めて誰かの心臓の音を感じたのは、まだ何も知らない少女の頃だった。
人間は生きていて、この脈打つ鼓動がその証なのだと知った。
不思議で、興味深くて、もっと知りたくなって、私の伸ばした手に自らの手を添えるその子に近づいて距離をつめた。
その子の心臓は駆け足から全速力になって、伝わる温度も少し上がったような気がした。生きていることを肌で感じる。本で読んだり頭で考えたりするものとは違う。体感による理解、そして更に増す好奇心。
いつもの帰り道がいつもと違ったのは、次の日から暑くて長い休みが始まる、ということだけではなかったらしい。
なぜその子が私の手を引いて、自身の胸にあてたのかはわからない。けれど見つめ合う瞳の奥に負の感情は窺えず、揺れた前髪から香るミントのようなシャンプーの匂いも相まって、なんだか悪い気分はしない。
「どういうことかわかる?」
照れくさそうに笑う。問いかけたその子の意図するところ。言葉も行動も声色も。答えなんていくつも散りばめられていたのに。理解するに足る頭がその頃の私にはなかった。
それほどまでに私は無知で、幼過ぎた。
そんな昔のことを思い出したのは、何度目かわからないあの香りを嗅いだから。
偶然などあるはずもないのに、その子が町を去って、あの意味に気づいて。何を期待しているのか自分でもわからないけれど。ただ、ミントの匂いにつられて振り返ってしまう。何年も、何十年も。
また人違いだったと落ちこみ、そもそも容姿も体型も、成長していては同一人物だと判断出来ないのではないかと考えまた落ちこむ。
すれ違った男性の年齢は私とひと回り以上離れているだろう。だからあり得ない。あの子ではない、自分に言い聞かせて家路を急ぐ。
すると、背後に向けた視線をそのままに歩いたものだから、足元が絡まりヒールがバランスを崩して体が倒れそうになった。
「大丈夫ですか」
寸前で踏み止まれたのは、スーツ姿の通行人の男性が受け止めてくれたからだ。
「すみません、よそ見をしてしまって」
抱えられた自分の手のひらが男性の胸元にあることに気づき、どうにも気まずいような、恥ずかしいような、申し訳ないような、何とも言えない気持ちになる。
「ありがとうございます」
おずおずと視線を上げ、男性と目を合わせる。その時、香った。あの日のミントの匂い。遠い夏の午後に見た、真っ直ぐ澄んだ瞳。
「もし…もし人違いだったらごめんなさい。あなたはーー」
言いかけた言葉が途切れたのは、胸元にある私の手の上に、その人の手が添えられたから。
「こちらこそ、人違いだったら申し訳ない。けれど、この質問に覚えがあるなら答えてもらえませんか」
「今なら…これがどういうことかわかる?」
照れくさそうに笑う男性の心臓は、あの日と同じ速さで脈打っていた。
完
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