5.彼は高次元幾何魔法師なんだぞ

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5.彼は高次元幾何魔法師なんだぞ

 そんなわけで俺はそれから三カ月くらい、ずっとジェイルの指輪をはめていた。それ以外は変わらない毎日だ。  もっとも雨季が近づいて、大雨にそなえて畑を囲ったり水路を掘ったり苗木を避難させたりで、仕事はめちゃくちゃきつくなった。この魔法生産複合体は低地にあるから雨の季節になると大変なのだ。大雨は上の泡にはほとんど影響しないけど、下じゃ大騒ぎになる。水路やため池の限界を超えると洪水になるからだ。  去年は大丈夫だった。でも今年はちがった。  雨がやんだあとに上流から水がおしよせて、畑はもちろん事業所も寮も食堂も、みんな水浸しになってしまった。俺たちは一時的に職員がいる中層に避難したけれど、水が引いたら出て行くことになった。  そうはいっても下はまだまだ泥だらけ。会社は魔法生産複合体の敷地の外に臨時の宿舎と事業所を建て、苗や鉢を避難させた。というわけで、花屋は全員その中に缶詰だ。当然ジェイルにも会えなくなった。それに大雨がはじまってから上級魔法師はみんな首都に呼び出されたって噂も聞いた。水が引いても戻ってこないらしい。  そのあいだも俺はずっとジェイルの指輪をはめていた。もう俺の体の一部のような感じがしていて、泥だらけになって片づけをしているあいだも、けっして外そうと思わなかった。  生産複合体の中層に避難したとき、偉そうな職員が指輪をみてぎょっとしていたのには気づいた。でもそんなの気にしている場合じゃなかったし、他人に変な目つきでみられることはこれまでも時々あったから、なんとも思わなかった。  ただこのあとに起きたことは、これがきっかけなのかもしれない。  ある朝事業所に出勤したら、知らない魔法師が俺を待っていたんだ。  あわてた顔をした上司が応接室にいるその人のところへ俺を連れて行き「彼がナギです」といって出て行った。俺はわけがわからないまま気をつけをしてその人の前に立った。  もちろんいつもの作業着だし、髪はうしろでひっつめて結んでるし、靴はどろどろだ。俺の前にいる魔法師はかなり年配で、立派な服を着て、よく磨いた靴を履いて、きちんと手入れした髭を生やしていた。俺を上から下までじろじろみてから、ちょっと頭を下げて俺の左手をじいっと見た。それから「座りなさい」といった。  しかたなく俺は座ったけど、やりかけの仕事が気になって仕方なかった。さっさときれいにしなくちゃいけない鉢や苗がたくさんあるんだ。今日俺のかわりにそれをやってくれる人はいない。もちろん、どこかにはいるだろうけど。俺のかわりに花屋をやれる人間はたくさんいる。でも今日はいない。  だけどこの魔法師はそんなの知ったことじゃないんだろう。何の前置きもなく、いきなりいったんだ。 「きみか。ジェイルの婚約者を騙っているのは」 「は?」  いったい何のことだ。さっぱりわからない――俺はそんな顔をしていたにちがいない。魔法師はたたみかけるようにいった。 「私はジェイルの父だ」  ああ、この人がジェイルを養子にした魔法師か。とりあえず相手が誰なのかはわかった。でもこの人は俺が気に入らないらしい。尖った目つきで睨んでくるし、だいたい、今いったことはなんだ。俺が何をしたって? 「ここの職員からジェイルの指輪をはめている者がいると知らせがきた。ジェイルに聞いたがろくに返事をよこさない。しかもこの生産複合体の人間は、きみをジェイルの婚約者だというじゃないか。実際に見るまで信じられなかったが、たしかにその指輪にはジェイルの印がついている。魔法師ならすぐにわかる刻印だ。きみはいったいどうやってその指輪を手に入れたんだ? 盗んだのか?」  はぁ?盗んだ? 俺の顔は赤くなった。もちろん、腹を立てて。だからいいかえした。 「何の話をしているんですか。この指輪はジェイルが作ってくれたんです。俺とジェイルは友だちです。婚約者とかいうのは知りません。みんなの勘違いです」  ところが魔法師も腹を立てたようだ。 「すぐにわかる嘘をつくんじゃない。きみのような花屋とジェイルが友だちのはずがない。彼は高次元幾何魔法師なんだぞ」 「嘘じゃありません」俺も魔法師をにらみつけた。 「俺とジェイルはおなじ孤児院だったんです」  魔法師は喉に何か詰まったみたいに黙った。睨むのはまずいな、と俺は気がついて(きっと偉い人だから)もうすこし丁寧にいった。 「指輪はジェイルに借りているだけです。彼に聞けばわかりますよ」  嫌な感じの沈黙がおちた。魔法師がごほん、と咳ばらいをした。 「でもきみはいつもそれをはめているというじゃないか。まるでジェイルと約束をしたみたいに」 「だからそんなのじゃないんです」  花弁魔法師を避けるためだなんて、そんな事情をこの人に話せるはずがない。 「ずっとつけているのは……ジェイルに外すなっていわれたからで……」  魔法師はじっとりした目で俺をみた。 「では、ジェイルがその指輪をきみに貸したという、きみの言い分が正しかったとしよう。だがジェイルがこの生産複合体にいるあいだはともかく、首都に行ってからもそうしているのはなぜだ? ここにジェイルがいなかったら、周囲が誤解しても彼は否定できないだろう?」 「でも、ジェイルが外すなといったんですよ」  俺はくりかえした。魔法師はまばたきをして、今度は憐れむような目つきになった。 「つまり、きみも誤解したということかね?」 「だから何を?」 「ジェイルの意思を、だ。たしかにきみは少々よい見た目をしている。だから彼に指輪を渡されて、勘違いしたんじゃないかね?」 「あの、俺はべつに勘違いなんて」  俺は口をはさみかけたが、魔法師の話はまだ終わっていなかった。 「私は誤解を正さなくてはいけない。きみだけじゃなく、周囲の人間の誤解もだ。何しろジェイルはつりあいのとれる相手と結婚しなければならないからね。彼はこれからもっと大きな責任を負うようになるから、おたがいに支え合える相手でないと困る。魔法師でもなんでもないきみには無理だし、きみがその指輪をはめていると周りの人間も混乱する。だからそれは外してジェイルに返しなさい。いや、今のうちに私が預かっておこう。後でジェイルに渡すから、今よこしなさい」  えーっと。  魔法師はどことなく得意げに俺を見返したけど、俺が思ったのは、この人は隅から隅まで誤解しているよな、ということだった。まあでも、ジェイルの親だし、ジェイルが大事なんだろう。それにこの人の話にも当たってるところはある。つまり、もろもろの誤解の原因がこの指輪だってこと。でも――  だからといって、俺に今この指輪を渡せというのはちがうんじゃないか?  だって、これをずっとつけていると俺が約束したのは、ジェイルだ。 「嫌です」俺はいった。「指輪はジェイルに直接返します」 「私はジェイルの父親だぞ。ジェイルに会った時に渡しておく。きみがそれを外せばいらぬ誤解もなくなるんだ」 「嫌だ。あんたはジェイルを連れて行ったけど、俺はあんたより前からジェイルと一緒だった」  魔法師は嫌な目つきで俺をみた。 「だからといってきみにそれをつけている資格があると思うのか? そんな作業着で、泥だらけになるのに。魔法師ならその指輪がどれほどのものかひと目でわかる。きみには本当の価値などまったくわからないだろう」  魔法師はじいっと俺をみている。俺はうなだれそうになった。  そんなこと知ってるよ。だからって、そんなにはっきりいわなくてもいいじゃないか。  黙りこんでいると、今度は魔法師は妙に優しい声でいった。 「すまない、傷つけるつもりはなかった。はっきり話さないときみは理解しないと思ったんだ。私がジェイルを引き取るまで、きみは彼と一緒に育ったかもしれないが、今の彼は私の大事な息子で、昔とはちがう人間だ」  あーあ。どうしたらいいんだろう。  ため息が出そうになった。この魔法師は俺が何をいおうと自分の思う通りにするつもりだとわかってしまったからだ。実際、魔法師はそんなことができる立場でもある。  ジェイルも魔法師だけど、すくなくとも俺といるときは、嫌がってる人を思い通りにしよう、なんて感じはしない。でも他の魔法師はみんなそうだ。例の花弁魔法師だって、いつかは俺が降参すると思っていた。だから俺はジェイルに指輪を作ってくれと頼んだ。あいつは俺と――友だちだと思ったから。  このぴかぴかの靴を履いた魔法師は、俺が指輪を渡すまでネチネチ話をつづけるつもりだろう。きっと上司は話がつくまで戻ってこない。下請け業者は魔法師に頭があがらないのだ。ジェイルを養子にしたこの魔法師はたぶんかなり偉い人だ。職員からご注進がいくくらいだから。  左手のくすり指をみると、指輪の表面はいつもより曇って白っぽくなっていた。この指輪は毎日ちがう表情をみせるのだ。  めんどうくさい、と俺は思った。外して、渡してしまえばいいじゃないか――そんな誘惑がやってきて、実際ほとんどそう思いそうになった。だってジェイルは首都にいて、ここにいつ戻って来るかもわからないし、戻ってこないのかもしれない。そもそもの元凶である花弁魔法師は大雨になってからずっと見かけない。だからこれを外しても、俺は困らない。  この魔法師のいいなりになるなんて嫌だけど、結局花屋っていうのはそういうもので――  じっと手をみた。パタンとドアが開く音がした。 「ナギ」 「ジェイル!」  俺を呼ぶ声と魔法師の声が重なった。うつむいていてもドアのところに落ちた影がみえた。まっすぐ俺の方へやってくる。顔を上げるとジェイルが俺を見下ろしている。 「ナギ、行こう」  腕をぐいっとつかまれた。 「え? ジェイルあの、おまえのお父さん――」 「いいから」 「ジェイル! 私はおまえが心配で――」 「ナギに手を出さないでください」  思いがけない冷たい声に俺はびくっとした。ジェイルがこんな声を出すの、聞いたことがない。 「ジェイル、私はただ」 「やるべきことは全部やりました。帰ってください」  いつものようにジェイルはまったく余計なことをいわないし、だから俺には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。でもジェイルが俺を助けにきたのはわかった。左手をひっぱられて、俺はマリオネットみたいに立ち上がる。ジェイルの指が俺の指にからんだ。俺たちはふたりで外に出た。
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