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利夫さんに書類を渡しに行ったあともなかなか医局に戻る気にならなかった私は、ひっそりと屋上に出た。
頭上には、銀砂を散りばめたような星空が広がっている。暗闇の中にいるのは苦手だが、高いところなら割と平気だった。人々の生活を遠くに感じられるからかもしれない。
眼下に視線を下ろすと、人の営みの温かい灯りが見える。それは今の私の不安定な涙腺を刺激した。
(藤宮先生に大きな口叩いて、結局利夫さんのためになんにもできない……)
息を吐く。
私は、なんのために医師になったのだろう。
白衣の袖で乱暴に目元を拭っていると、背後でがちゃりと扉が開く音がした。顔を向けると、そこには今一番会いたくない人がいた。
藤宮先生は私を一瞥してもなにも言うことなくベンチに座り、缶コーヒーのプルタブを引く。プシュッと軽やかな音が夜の静寂に溶けていった。
「……すみませんでした」
「……それは、なにに対しての謝罪ですか」
無機質なその声は、先程の利夫さんへの態度とはまるで違う。
「藤宮先生の意向も聞かず、勝手な口出しをしてしまって……結果、患者さんに不利益を与えてしまいました」
藤宮先生はひと口コーヒーを飲むと、ゆっくりと口を開いた。
「……保存治療中の破裂や心タンポナーデが原因で死亡する患者は少なくありません。術後、多臓器不全を起こすことも多い。由美さんはどちらにしろ、オペの甲斐はなかったと思います」
「……本気で言ってますか」
数十層の弾性繊維からなる大動脈中膜が解離する大動脈解離は、発症から二十四時間以内の死亡率が五十パーセント、二週間で七十パーセントを超える非常に死亡率の高い病気である。
……だけど。
助かるか否かなんて、そんなものはやってみなければ分からない。分からないからこそ、私たちは足掻くのだ。つまりそれなりの身分保障もある。
自分たちは神ではないと、先のことなど分からないと、そう言ったのは藤宮先生だ。
藤宮先生は私から視線を外し、静かに星空を眺めている。
「……藤宮先生がもしあの場でオペの同意を得て執刀していたら、由美さんは助かったかもしれません」
「……俺たちの仕事に、もしもや奇跡はありません」
藤宮先生の鋭い言葉に、私は俯いた。指先が冷たい。
彼女のオペは相当厳しかった。でも、だからこそ藤宮先生が執刀していればと思わずにはいられない。
「私にもう少し余裕があれば、利夫さんの不安だけでも取り除けていました」
「……はぁ」
藤宮先生の唇から漏れるため息が痛い。
「後悔のあとは、ない物ねだりですか」
「……すみません」
「あなたへの指導としての条件、増やします。自分の腕に自信を持たないこと。それから、患者に感情移入しないこと」
「……どうしてですか?」
私は顔を上げ、藤宮先生を見た。
「助けられなかったときに、心が折れるから」
「先生もそんなふうに思ったことがあるんですか」
「患者は医者を人間だとは思っていません。なんでも治せる魔法使いだと思っています。病気を治せなかったとき、患者やその家族にとって、医者は憎い相手に変わる」
「……そうだとしても、私は病気を治すだけじゃなくて、患者の心に寄り添うことができる医者になりたいです」
一瞬、藤宮先生の目がぐらりと揺れた気がした。
「……お先に」
藤宮先生はなにも言うことはなくコーヒーを飲み干すと、白衣をひるがえして屋上を出ていった。
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