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第二章・心臓に秘めた想い
西ノ宮大学附属総合病院へ赴任して、一ヶ月が経過した。
その間私は藤宮先生の元で、外来からオペの手技まで幅広く知識を吸収する日々を送っていた。藤宮先生は態度と性格はすこぶる悪いけれど、その仕事から学ぶべきことは多く、毎日が目まぐるしい。
(目が疲れた……眠い……寝たい……)
毎日こんなことを考えている。
新人医師は多忙極まりない。
オペの予習をして、ぼんやりとして、すぐにハッとして入力作業に取り掛かる。そんな毎日だ。
休憩時は屋上に出て外の空気を吸うのが私の日課となっていた。
屋上から中庭を見下ろすと、緑色のはずの地面が白くなっている。目を擦った。
とうとう目が……と、思ったら。
(なんだ。桜の花びらか)
窓の外ではもう桜が散って、初夏になり始めているという。ロッカーには、裏地付きの厚手のコートがしまわれたまま。
季節を感じる暇もないほど、私はパワハラ悪鬼にしごかれていた。
陽は既に沈み、下の方には星がちらちらと瞬き始めている。
「高いところなら出られるんだけどなぁ……」
ベンチに腰掛け、空を見上げた。視界から人工物が消え、赤と白と紺がとろりと混じりあった空が広がった。
そっと目を瞑る。初夏を感じる生あたたかい風が頬を撫でた。今の時期は冷たくなくていい。
私はゆっくりと目を開け、立ち上がる。ベンチの隅に置いていた空のコーヒー缶を取ると、屋上を出た。
休憩を終えて医局に戻ると、デスクには私以外の全員が揃っていた。私も空いていた自身のデスクに収まると、勉強を始める。
(胸骨切開、心臓アプローチ……大動脈弁切除、弁輪が石灰化していた場合、石灰を削り取る。カスが脳に飛ばないように吸引や洗浄は念入りに……)
大動脈弁狭窄症のオペの予習中、何度か意識が飛んでは現実に戻る。
(ムズっ!!)
――と。
ぽんぽん、と肩を叩かれハッと顔を上げる。
「ひゃいっ!?」
「ねぇ、音無先生。今日も帰らないの?」
船を漕ぎながらも帰ろうとしない私に、入江先生が心配そうに尋ねた。
(……なんだ、入江先生か……)
「はい。勉強しないと間に合わないので」
すると、入江先生は困ったように笑った。
「音無先生、この一ヶ月無理し過ぎ。仮眠は取らないとダメだよ。今日は当直でもないんだし」
「それは分かってるんですけど……時間が圧倒的に足りなくて」
「それは、僕たちも通ってきた道だから分かるけどね。というか藤宮先生もそこら辺は気を使ってあげなきゃダメじゃないですか」
「それは俺の仕事ではないと思うのですが」
「仕事云々じゃなくて、人として心配しなさいと言っています」
「すみません、気付きませんでした」
形だけ謝る藤宮先生は、淡々と入力作業を進めている。
「まったくもう……とにかく、音無先生は今すぐ仮眠室」
入江先生は私を無理やり仮眠室に閉じ込めた。私は大人しく仮眠をとることにして、少し埃っぽい仮眠室のベッドに潜り込む。黄ばんだカーテンの隙間からは、夜の闇が忍ぶように入り込んでいた。
私は暗闇を怖がる子供のように頼りない所作で、ぎゅっと目を瞑った。
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