第二章・心臓に秘めた想い

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 それから、どれくらい経っただろう。ふと、肩に温もりを感じてパッと目を開ける。  ――と。 「……大丈夫ですか?」  目の前には、それはそれは綺麗な顔。一瞬、思考が停止する。 「…………ぬわぁっ!?」   藤宮先生がいた。叫んだ直後、藤宮先生は目を細めて眉間に皺を寄せる。 「……人の顔見て唐突に叫ぶとは、失礼な人ですね」  「すす、すみません……というか、な、なんでここに藤宮先生が?」 「……なにと言われましても。ここは仮眠室ですよ」 (そうだった。家じゃなかった……)  額を押さえた。 「……し、失礼しました……もしかして私、寝言とか言ってました? うるさかったですか?」  窺うように藤宮先生を見ると、彼は少し言い淀むように口を閉じた。 (……え、なに、この間) 「あの……藤宮先生?」  ひやりとした。変なことを口走ってないといいが。 「寝言は言ってなかったけど……魘されてました」 「……すみません、悪い夢でも見てたのかも」  前髪をくしゃっと無造作にかきあげながら、私は藤宮先生から目を逸らした。ふと落ちた沈黙に戸惑うように、藤宮先生が私を見る。 「…………大丈夫ですか?」 「大丈夫です」  噛み付くように答えると、藤宮先生はそれ以上はなにも聞いてこなくなった。怒ったわけではないのだが。 「……すみません」 「なぜ謝るんです?」 「……いえ……その、すみません」  謝罪以外の言葉が出てこない。 「……まぁいいです。音無先生、今から出られますか?」 「え……え、い、今から?」 「はい。今から」  藤宮先生はそう言うと、私の手を掴んだ。そのままベッドからぐいっと強引に私を引っ張り出す。 「わっ……!」  その手は、思っていたよりもずっと大きくて力強かった。 ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽      そうして連れていかれたのは、病院の近くの定食屋だった。  のどかなオレンジ色の光が胸を温める。  店にこびりついた油の匂いや、快活な店員たちの声。すべてが心地良い。  がしかし、私は解せない。 「……あの、藤宮先生。これは?」 (私はなぜ仮眠から起きてすぐ、定食屋にいるのか……) 「夕飯です」 「あぁ、夕飯」 (それなら納得……) 「……って、そうではなく! なぜ私を連れてきたんです?」  うっかり納得しかけて、すかさずツッコむ。 「食べてないでしょう。俺が見る限り、あなたは今日一日なにも食べてない」 「……コーヒーとサプリは取りましたよ」 「それは食べたうちに入らない」  ぴしゃりと言われ、私は口を噤んだ。すると、藤宮先生はなぜだか罰が悪そうな顔をして言った。 「……入江先生に叱られました。ネーベンの体調管理はオーベンの仕事だと」 「…………」  笑顔で脅迫めいたことを言う入江先生が頭に浮かんだ。なかなかに怖い。 「ですが、俺だって忙しい。というわけで、あなたにはこれから俺と同じ生活をしてもらいます。俺が食べるときにあなたも食べる。俺が寝るときはあなたも寝る。そうすれば手間も省けるし、あなたの体調も今よりはマシになるでしょう」  それはそうかもしれないが。 「いや、それは少し強引過ぎるのでは……」 「いいですね?」 (強引……) 「……はい」  随分と勝手なことを言われている気がするが、なぜだか悪い気はしない。 「というか今、藤宮先生、私のことネーベンって言いました……?」  藤宮先生の言葉が頭の中でリフレインする。じっと藤宮先生を見つめると、彼は少しだけ頬を染めて、そっぽを向いた。 「なんです。あなたは俺のネーベンでしょう。……違うんですか」  口を尖らせる姿は、少しだけ子供っぽくて可愛らしい。 「……それは、そうですけど」 (ネーベン……ネーベンか……ネーベン) 「ふふっ……」  表情が綻ぶ。 「なに笑ってるんです」  不機嫌そうな声が返ってくる。それがなんだかおかしくて、私ははつらつとした声で言った。 「じゃあ、私は生姜焼き定食で」 「いきなり元気ですね……さっきまですんすんしていたくせに」 「すんすんなんてしてません。というか、我に返ったら急にお腹が減りました。藤宮先生の奢りなんて嬉しいなぁ。もっと高いの選べばよかったかな」 「誰も奢るとは言ってないんですが」 「え…………」  捨てられた子犬のようにしゅんと目を伏せると、藤宮先生は困ったように私の手を取った。手首の薄い皮膚から、じんわりと藤宮先生の体温が伝わってくる。 「……嘘です。奢るから、ちゃんと食べてください。これ以上痩せたら、あなた死にますよ」  思いの外心配そうな顔をして言う藤宮先生に、胸が鳴る。 「曲がりなりにも医師ですし、この程度で死にはしないと思いますけど……まぁ、食べます」  案外、藤宮先生は可愛いところがある人だと思った。 「音無先生は生姜焼き定食でいいですか?」  藤宮先生は、メニューを見ながら私に訊く。 「はい! じゃあついでにビールも!」 「調子に乗らない」   怒られた。  けれど、藤宮先生はビールもちゃんと付けてくれた。藤宮先生はもしかしたらツンデレというやつなのかもしれない。  そのとき食べた生姜焼き定食は、人生でこれ以上ないくらいに美味しかった。  
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