第二章・心臓に秘めた想い

4/11
前へ
/64ページ
次へ
 その日の朝は、藤宮先生と一緒に出勤した。  医局に入ると、先に来ていた佐伯先生と当直だった入江先生が私たちを見て、一瞬フリーズした。  入江先生は目を瞠ったあと、にやっと目を細めた。 「……おっと、揃って出勤とは仲良しだねぇ?」 「これは昨日、仮眠室でなにかありましたかね……?」  佐伯先生と入江先生の冷やかしを、「たまたまそこで会っただけです」と、藤宮先生が涼しい顔でぶった斬る。  さすが、息をするように嘘をつく天才オーベンだ。 「おやおや、嘘はいけないなぁ、藤宮先生? さっき脳外ナースの横山さんが二人が同じマンションから出てくるところを見たって騒いでたよ?」  ナースのアンテナの鋭さにぎょっとする。 「…………ちっ」  今度は舌打ちときた。  なんてことだ。  私はおろおろと藤宮先生と入江先生を交互に見るしかできない。 「昨日まで完全にスルー対象だったのに、どういう心境の変化かな? 藤宮先生?」  入江先生は心底楽しそうに藤宮先生に絡み付く。藤宮先生はうんざりした様子で、「白々しいこと言わないでください。入江先生がもっと気を遣えと言ったんでしょうが」と返している。 「気を遣えとは言ったけど、付き合えとまでは言ってなかったんだけどなぁ。それで? 朝帰りってことは、二人は付き合ってるのかな?」 「つつ、付き合ってません! 昨日はなにもありません!」  私は慌てて否定した。 「えーでもそれ、泊まったってことだよね? なにもないことないでしょうよ。男と女が同じ部屋に一晩いたんだから。ねぇ、藤宮先生?」  入江先生は笑顔で藤宮先生に話を振った。なかなか離してはくれないようだ。 「俺と音無先生は職場の同僚という以外、なんの関係ありません」  藤宮先生はきっぱりとそう言い放つと、デスクに座り仕事を始める。 「なぁんだ、つまんないの」  入江先生は興味を失くしたように、パソコンに視線を落とした。子供のようだ。 「驚かせてしまってすみません。昨日は私がうっかり酔ってしまって。だから……本当に送ってもらっただけなんです」  藤宮先生は指導医として、ネーベンをただ介抱してくれただけである。  変に期待をしてはいけない。藤宮先生にとって、私なんてただの子供だ。  そう自分に言い聞かせる。 「……そもそも私、嫌われてますから」  すとん、と椅子に座り直す。すると、入江先生が顔を上げた。 「ほら、藤宮先生が冷たいから音無先生誤解してるじゃん。女の子泣かせちゃダメだっていつも言ってるでしょ。愛って怖いんだよ?」 「え……いつも?」 「藤宮先生ってモテるのにこういう人だからさ。こっぴどくふられた女の子たちはみんな藤宮先生を嫌いになっちゃうわけ」  入江先生が頬杖をついて、藤宮先生を見やる。 (モテる……そりゃそうですよね)  医師だし、イケメンだし、天才だ。こんな物件を放っておく女性はいないだろう。  水底に沈んでいくように気分が重くなる。 「ほら、音無先生泣いちゃうよ」 「……泣きません。大丈夫です。これ以上嫌われないように、今日からまたバリバリ仕事します」  淡白に答えると、パソコンに向き合う。  大丈夫。これまで、何度もこういう経験はしてきたのだ。私はこれからも一人で生きていくのだ。傷付くもなにもない。  私は粟立つ心に何度も心の中で復唱する。作業を進めた。 「大丈夫です。仕事の邪魔だけはしないように心がけます。口答え禁止、弱音禁止、質問禁止、アルコール禁止……ハイ。勉強します」 「え、いやいや、音無先生自己完結速過ぎだって。嫌ってないでしょ、べつに。ねぇ、藤宮先生?」  入江先生はほんの少し慌てた様子で、藤宮先生へ視線を移した。 「……まぁ」 「え? 嫌ってないんですか?」  顔を上げる。べつにどうでもいいはずなのに、少し心が軽くなる。 「そもそも嫌うほどあなたを知りませんし」  ぽかんとなる。 「私はてっきり、羽虫より嫌われてるものと……」 「なんでですか。というか、俺がいつ羽虫が嫌いだと言いました? 羽虫に失礼でしょう」 「じゃあ、好きなんですか?」 「好きではありませんが」 「てことはやっぱり嫌いなんじゃないですか」 「嫌いとは言ってません」 (屁理屈……) 「……藤宮先生は私のことは好きなんですか、嫌いなんですか?」 「なんで好きか嫌いかの基準しかないんですか」 「……つまりどちらでもないと」  どうでもいい、という反応が一番堪える。  ひとりしょぼくれていると、 「……嫌い、ではない」と呟いた。  私は目を丸くして、藤宮先生を見た。 「えっ……ほ、本当ですか?」 (わっ……)  多分、尻尾があったらぶんぶん振っていたと思う。  藤宮先生はほんの少し狼狽えた様子で、パッと私から目を逸らした。 「とにかくあなたはアルコール禁止、仮眠室も禁止、非常識的な着替えの持ち込みも禁止」 「仮眠室と着替えもですか!?」 「どうしてものときのみ許可しますが、基本時間があるときは家に帰るように」 「そんなぁ……」  続けて佐伯先生も苦笑しつつ私に言う。 「私もあんまり泊まり込みは推奨しないなぁ。部下の勤務態度については私の管理職者としての評価への影響著しいんだよ。あんまり残業されちゃうと私の出世が遠のいちゃう」  佐伯先生にまで言われてしまった。 「そ、それは大変です……とはいっても、病院にはシャワーも仮眠室もあるし、着替えだって用意しておけば特別困ることもなく快適で……」  思わず本音を垂れると、藤宮先生から無言の圧を感じた。ハッとして口を噤む。 「すみません」 「そもそもさ、音無先生ってなんで毎日泊まりこみ前提なの?」  入江先生に尋ねられ、私はギクリと肩を揺らした。 「それは……その、家だと勉強する気になれないので、泊まった方が効率がいいというか」 「子供ですか。家で勉強しなさい」 「……音無先生ってたまに素直過ぎるくらいに素直だよね。可愛いなぁ」  入江先生はにこにことして言う。 「つまり、馬鹿正直だと言いたいわけですね?」 「まさか。で、本当の理由は?」  入江先生は鋭い視線を向けた。私は一拍置いて、口を開く。 「……暗い道が苦手で」 「家、遠いの?」 「いえ。病院前交差点の先のマンションなので、すぐ近くです」 「なんだ。それなら送れるときは僕も協力するよ。あ、でも僕が送るときは見返りがほしいなぁ」 「見返り?」  首を傾げる。 「うん。音無先生のお部屋上がりたい。なんなら泊まりたい」 「もちろん、お茶なら出しますが……あ、でも付き合ってない男性を部屋に入れるのはよくないって怒られたばかりでした」 「えー。僕は上司だよ。いいじゃん特別に。勉強も教えてあげるよ?」 「それは……」  すごく魅力だ。 「それとも、藤宮先生以外は入れたくないとか?」 「そ、そういうわけでは……ただ、皆さんお忙しいでしょうし、仕事の邪魔をするわけにもいきませんし……」  若干冷や汗をかきつつ、ちらりと藤宮先生を見る。しかし、彼はなにも言わない。 (まさかの無反応ですか……)  助けてくれる気配はない。私はため息をつき、入江先生へ視線を戻した。 「……じゃあ、タイミングが合ったときだけお願いします……」 「うん」  入江先生は、にこにこと満面の笑顔で頷いた。 「じゃあ、そろそろいいかな? 揃ったから、カンファを始めよう」 「はい」  佐伯先生の号令に、それぞれ手を止めてカンファ用の長テーブルの前に集合する。 「今日は新規の患者が一人。実は、藤宮先生に担当していただきたい患者さんがいましてね。ちなみにこの患者、院長ご指名ですので」  院長ご指名ということはつまり、 「VIP患者ですね」 「うん。音無先生にもフォローお願いするのでそのつもりで」 「はい」  私は早速佐伯先生から渡されたカルテを見る。 (田中(たなか)頼人(よりと)くん、十四歳……) 「子供?」 「この患者さん、実は田中(たなか)勝頼(かつより)議員のご子息なんだ」  田中勝頼。現衆議院議員だ。若くして経済産業大臣を務めており、政治に疎い私でも知っているほどの超有名人である。 「なるほどー。藤宮先生がご指名になるわけですね」 「すごいです! こんな有名な人を診ることができるなんて!」  私は一人キラキラした瞳を藤宮先生に向ける。 「べつにすごくないでしょう。人の命に優劣はありません。俺はいつも通りやるだけです。それよりこの患者の容態は……」  私と藤宮先生はカルテを確認する。 「先天性弁膜疾患(せんてんせいべんまくしっかん)」 (先天性弁膜疾患……ちょうど勉強してたやつだ)  先天性弁膜疾患とは、心臓にある血流を調節する弁に異常がある人のことを言う。  弁の種類は、主に右心房(うしんぼう)右心室(うしんしつ)の間にある三尖弁(さんせんべん)、右心室と肺動脈(はいどうみゃく)の間にある肺動脈弁、左心房(さしんぼう)左心室(さしんしつ)の間にある 僧帽弁(そうぼうべん)、左心室と大動脈の間にある大動脈弁がある。   田中頼人くんは心臓超音波検査により、先天性弁膜疾患と診断された。  重症度は四。自覚症状あり、かつ本人希望のため手術適応症例となったようだ。 「憎帽弁狭窄症ですか。でも、手術ができるくらいの体格でよかったですね」 「そうは言っても、心臓手術は再手術ほど危険率が高くなる。年齢を考えると、できることならしたくありませんが……本人やご家族の希望ということなら、仕方ないですね」 (小児のオペか……絶対に見落としがないようにしなくちゃ)  私は一人、拳を握る。 「VIPだから、患者対応についてもくれぐれも失礼のないようにね」  念を押すように佐伯先生が藤宮先生を見る。  藤宮先生は面倒そうに目を逸らした。 (……あ、面倒くさそう)  ちょっと、可愛い。  最近藤宮先生の細かな表情が分かるようになってきた気がする。藤宮先生はポーカーフェイスだと思っていたけれど、本当は全然そんなことはないらしい。 「あれ、藤宮先生聞こえてます?」  さらに入江先生が念を押す。 「…………はい」  いやいや返事をする藤宮先生に苦笑しつつ、私はカルテに視線を戻したのだった。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

309人が本棚に入れています
本棚に追加