第一章・心臓破裂、何秒前?

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 春の陽気は一見すると暖かいけれど、時折騙し討ちのような冷たい風を連れてくるから苦手だったりする。特に冷たい風は、あの日を思い出すから。 「おはようございます」  事務長がのんびりと挨拶をしながら心臓外科の医局に入る。私はその後に続き、小さく「おはようございます」と挨拶をした。  心臓外科の医局は思っていたよりこぢんまりとしていた。向かい合うように置かれた四つのデスクとカンファレンス用の資料が積まれた長テーブル。デスクには、三人の医師が座っている。二人は三十前後と思われる男性。そして、もう一人は事務長と同年代らしき五十前後の男性。全員、見事に顔面が整っている。  一番年長と思われる男性は、事務長と私に気がつくと立ち上がった。 「おや。そうか。今日は新年度だったねぇ」  のんびりとした口調で言う男性に、事務長が苦笑を漏らす。 「まったく、佐伯(さえき)先生は呑気だなぁ。はいはい、皆さんお忙しいところすみませんが、新しい先生が入りますので紹介しますよー」  事務長がしんとしていた医局内に声を響かせる。その声は柔らかくありつつも、どこまでも通るラッパのようだ。 「存じてますよ、音無先生」  男性は柔らかな笑みを浮かべ、私を見る。  私はすん、と息を吸って、頭を下げた。 「おはようございます。今日からこちらでお世話になります、音無杏です。よろしくお願いします」  私の挨拶をにこにこと聞きながら、男性も自己紹介してくれる。 「私は佐伯翔平(しょうへい)です。心臓外科長をしています」  心臓外科長の佐伯翔平先生。心臓外科界のプロフェッショナルで、同胞で知らない人はいないと言われるほどの有名人。時折テレビにも出演していたりもして、世間からの関心も高い。いわゆる、イケおじである。 「存じております。佐伯先生の下で働けるなんて光栄です、よろしくお願いします」 「こちらこそ。じゃあ、次は……」  佐伯先生は隣の男性医師をちらりと見た。私も佐伯先生の視線につられるように、そちらを見る。 「こちらは副科長の入江(いりえ)誠司(せいじ)先生と、藤宮(ふじみや)(かおる)先生」  佐伯先生はデスクで事務作業を淡々と進めていた男性医師二人を紹介する。佐伯先生に紹介された入江先生は、顔を上げて私を見るとぺこりと軽く会釈した。 「入江です。よろしくね、音無先生」  綿菓子のようにふわふわとした口調で、入江先生は私を見た。 「よろしくお願いします」  彼もまた、淡い茶髪で女性や子供に人気がありそうな甘い顔立ちをしている。声まで甘いとは興味深い。  そして、最後の一人……。  心臓が高鳴った。 「……藤宮です」  さらりとひと言そう告げて、すぐにパソコンに視線を戻した彼こそが、私がずっと追いかけてきた人。藤宮薫その人であった。私は藤宮先生の前に駆け寄ると、改めて自己紹介をする。 「あのっ……お、音無杏です。藤宮先生、これからよろしくお願いします」  藤宮先生は一度瞬きをした。座っていても分かる、すらりとした体躯。意志の強そうな眉と切れ長の目、すっと流れるような輪郭を持った美形の持ち主。しかしその人は、顔が整っている分無表情に迫力があって近寄り難い雰囲気がある。 (綺麗な人……)  写真で顔を見たことはあったが、実物の方がずっと美しい。 「おっと、名指し?」  入江先生が鋭く反応する。 「音無先生は藤宮先生に指導医を希望してるんだ」 「俺……ですか?」  藤宮先生は眉をひそめて私を見上げる。目が合った瞬間、かぁっと耳まで熱くなっていく。 「ずっと、藤宮先生から学べることを楽しみにしてきました。あの……ご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いします」  勢いよく頭を下げる。 「なるほど。藤宮先生イケメンだもんねぇ。さすが、モテる男は羨ましいなぁ。僕も可愛い後輩がほしいのになぁ」  入江先生は察したようににやりと笑った。 「いえ! その、お二人のことももちろんとても尊敬しています!」 「ハハ。分かってる分かってる。それにしても、女医さんが来てくれるとやっぱり華やかでいいなぁ。空気が違うよ」 「ですねぇ」  医局の雰囲気は、案外のんびりとした空気だった。これまでの経験から戦場のような場所かと思っていたけれど、この部署は穏やかそうな人たちで私は内心一安心する。  佐伯先生はひとつ空いた席の椅子を引きつつ、私を呼ぶ。 「音無先生のデスクはここね」 「はい!」 (藤宮先生の隣……!)  一人ひっそりと胸を弾ませていると、事務長が藤宮先生に言った。 「というわけで、音無先生の指導に当たるのは藤宮先生になるからよろしくね」 「…………」 (……あれ?)  藤宮先生を見る。返事がない。返事の代わりにため息が聞こえた。 「ね?」  事務長は笑顔のまま、藤宮先生に返事の催促をする。 「……はい」  渋々、といった感じだ。 (もしや私、歓迎されてない……?)  たしかに新人の教育など、多忙な医師にとっては面倒でしかないだろうが。私はおずおずと藤宮先生を見つめた。 「よろしくお願いします……」 「じゃあ、音無先生は詳しいことは藤宮先生に聞くように。音無先生には、これから心臓血管外科専門医の取得を目指してもらいます。それじゃ音無先生、大変だろうけど頑張って」  事務長は藤宮先生と私の肩に手を乗せて、にっこりと微笑んだ。 「はい! 頑張ります!」  私の指導医を名指しされた藤宮先生は、ちらりと私を見て、すぐにパソコンに視線を戻してしまった。
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