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「…………」
美矢ちゃんは、それ以上藤宮先生に言い返そうとはしなかった。私は美矢ちゃんの枕元にしゃがみこんで、笑みを向ける。
「……美矢ちゃん。あのね、藤宮先生の言い方はあれですが……藤宮先生は美矢ちゃんを助けるために本当に一生懸命だったんですよ」
藤宮先生の暴言を、私は噛み砕いて説明する。
「……そんなの、仕事だからでしょ」
そう呟く美矢ちゃんの声は震えていた。
「うん……」
たしかに、医師は仕事だ。私たちはそれで食べている。
(でも私たちは……)
「たくさんお金もらってるんだから、それなりの仕事なんでしょ」
「……でもね、美矢ちゃん。こんな私でも一応医師ですが……でも、私はまだ全然誰のことも助けられていません。勉強しても勉強しても、来るのは救命が難しい人、心臓が止まってしまった人。助けられる見込みのない人たちばかり。……助けたくても、オペすらできないこともあります。……私はまだ、一人も自分の手で助けられていないんです。藤宮先生にも怒られてばかりで」
毎日、謙遜でも努力してないなんて言えないくらい私は努力しているつもりだ。それでもまだ、全然足りない。藤宮先生には追いつかない。
「美矢ちゃんのこと……私だったら多分、助けられていませんでした。美矢ちゃんが今ここで息をしているのは、救命処置をしたのが藤宮先生だったからです」
美矢ちゃんはびくりと肩を震わせた。
「藤宮先生だけじゃない……ここにいるナースたちも皆、美矢ちゃんを助けるために必死だったんです」
そこで初めて、美矢ちゃんは藤宮先生をまっすぐに見つめた。
「……教えてください。あなたが死にたい理由はなんですか。真矢ちゃんが死んでしまったからですか。両親に嘘をついた罪悪感からですか。……それとも、自分だけ音楽学校に落ちたからですか」
「……そんなの、先生には関係ない」
「真矢ちゃんを失って悲しいなら、生き抜いてから会いに行きなさい。両親に嘘をついた罪悪感でいっぱいになってるなら、今すぐに謝ればいい。音楽学校に落ちたからなら……それこそ、くだらない」
藤宮先生の吐き捨てるような言葉に、美矢ちゃんはぐっと拳を握った。
「……先生には分かんないよ。頭良くて、格好良くて、そんな人に私のなにがわかるの。私は一生懸命頑張った! 私と真矢は成績だって順位だっていつも同じだったのに……それなのに、私だけ落ちた気持ち、分かる!?」
すると、藤宮先生はあからさまにため息をつく。
「……一度失敗したくらいで、なに言ってるんです。悔しいなら、また受ければいいでしょう。胡桃坂音楽学校の受験は、十五歳から高校卒業までの年齢。計四回受けられると聞きました。計算すると、あなたにはまだあと三回チャンスがあるはずです。それなのに受験をしようともせず、彼女のふりをして学校に行って、満足しましたか?」
ぐ、と美矢ちゃんは言葉に詰まった。
「あなたがやったことは、胡桃坂音楽学校を受験して落ちた子たちの努力を否定する最低な行為です。悔しかったら、自分の実力で受かってみせなさい」
藤宮先生は珍しく怒りを露にした様子で。そんな藤宮先生を、私は場違いにも格好良いなんて思ってしまった。
しかし、美矢ちゃんの涙声にすぐにハッとする。
「……無理だよ。今さら。だって私、真矢のふりして何回も学校に行っちゃってるもん。受験する資格なんてない……」
すると、藤宮先生は少しだけ考え込んだ。
そして、
「……そんなの、あなたの勝手な妄想か、この新人外科医の聞き間違いでしょう」
「え……?」
美矢ちゃんも私も目をぱちくりとさせる。
「ねぇ、音無先生?」
藤宮先生の流れるような視線に、私は必死に頭を回転させた。そして、ようやく藤宮先生の言葉の意図に気付く。
「……そそ、そうだったかもしれません! そういえば、美矢ちゃんはただ私に冗談を言っただけだったんでした! 美矢ちゃんと真矢ちゃんは、その日たまたま制服を交換して写真を撮っていただけで! ね? そうですよね!? たしかそうだった! ね! 美矢ちゃん!」
「は……はぁ……?」
戸惑う美矢ちゃんに、藤宮先生が言う。
「あなたはただの事故の被害者だ。悪いことなんてなにもしてない。だから、俯くことはありません。顔を上げてしっかり生きなさい。亡くなったお姉さんの分も」
どんなに祈ったって、死んだ人は帰ってはこない。
けれど、遺された美矢ちゃんには、まだ未来がある。まだまだこれからだ。
「うん。これこそ、美矢ちゃんの演技力が問われるときですね!」
美矢ちゃんは大きな瞳をばちくりとさせて。
「……私、生きてていいの……?」
「当たり前です。俺が死ぬ気で助けた命を無駄にしたら、バチが当たりますよ」
つんとした口調ながら、藤宮先生の顔はこれ以上ないくらいに柔らかかった。
「そうですよ。美矢ちゃんの人生はまだまだこれから、始まったばかりなんですから。ね?」
「……うん」
美矢ちゃんは、最後に綺麗な涙を一粒だけ流して、しっかり頷いてくれた。
私も美矢ちゃんの涙につられて涙を滲ませながら、彼女の小さな白い手を握る。
「一緒に生きましょう、美矢ちゃん」
まっすぐに美矢ちゃんを見ると。
彼女は、躊躇いながらも、
「うん……」
小さくだけど、頷いてくれた。
私はようやくホッとした。
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