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その日の夜は、病院近くの居酒屋で私の歓迎会を謳った飲み会が開かれた。
店内は全体的に木造りのその場所はあたたかく、柔らかい色合いをしている。
「では、始めましょうか」
店内には、会社帰りのサラリーマンの集団や女子会を行う女性たち、一人で飲みに来た客がまばらにいる。客はそこまで多くないのに、空気は賑やかだ。居酒屋なんて無縁の場所と思っていた私には、いささか眩しく思えた。
それぞれの楽しみ方で過ごす客たちに混じって、私たちもビールジョッキを手に取る。
「――それでは、音無先生のこれからを祝して乾杯!」
「乾杯!」
カチンと軽やかな音が鳴るとともに、私の知らない大人の時間が始まった。
入江先生はビールをするすると水のように飲んでいく。飲み込む度、喉仏がごくりと上下する。穏やかな入江先生の、意外にも豪快な飲みっぷりに目を奪われる。自分のグラスを傾けるのも忘れてじっと見つめていると、ふと入江先生と目が合った。
「ん? あれ、音無先生飲まないの?」
「あ、ハイ……飲みます」
私も慌てて烏龍茶をあおった。グラスを置くと、入江先生はテーブルに頬杖をついて私を見つめていた。かすかに細められた目は色っぽくて、少し濡れている。
「あ、あの……なにか」
いつになくまっすぐに見つめられ、私はドギマギしながら小さく尋ねた。
「音無先生っていくつなんだっけ?」
「あ……えと、二十九です」
ほんのり目元を赤く染めた入江先生の破壊力ったらない。これはさぞ女性にモテるだろう。
(心臓破りの心臓外科医……なるほど、噂通りというかそれ以上というか)
ナースたちがこぞって騒ぐ理由が、少しだけ分かった気がする。
「若いなぁ。可愛いなぁ。ねぇ、音無先生って今彼氏いるの?」
「いえ、いませんけど」
「こんなに可愛いのに勿体ないなぁ」
入江先生は私の頬を指先でするりと撫でた。一瞬、ドキリと胸が弾む。けれどその直後、胸がすっと冷たくなった。
離れていった入江先生の指先を見つめ、ふと考える。
(……私も普通の女の子みたいに恋をしたら、もう少し楽なのかな)
「あ、その顔。もしかして音無先生、好きな人いるんでしょ?」
どきりとした。
「え!? い、いませんよ!」
図星を突かれ、私はぶんぶんと首を横に振る。
「いいよいいよ、恥ずかしがらないで、お兄さんに正直に言ってごらん? 応援してあげるからさ」
「し、してませんし、大丈夫です、間に合ってます……!」
ぐいぐい来る入江先生を、私は慌ててぐっと押し返す。
「こらこら。入江先生、音無先生と近過ぎだよ。コンプライアンス的にアウト。セクハラで訴えられちゃうよ?」
佐伯先生の牽制に、入江先生は笑いながらパッと手を離した。
「やだなぁ。音無先生はそんなことしませんよね?」
入江先生は悪びれた様子なく、ケロリと言う。
「ハハ……」
私は曖昧に笑った。こういうとき、どういう顔をするのが正解なんだろう。藤宮先生をちらりと見るが、彼は一人静かに卵焼きを摘んでいる。
(……こういう席でなら、もう少し話せるかなと思ったんだけど……)
「藤宮先生は無愛想だし、佐伯先生はちょっと歳離れ過ぎだし……音無先生、僕はいつでも大歓迎だからね?」
「? はい」
藤宮先生を気にして、入江先生の話を聞いていなかった。なにがはいなのか分からないが、とりあえず頷いておく。
隣で静かに食事をする藤宮先生を見る。彼の手にあるグラスの飲み物は烏龍茶だった。
酔っていないのなら、助けてくれたっていいのに。なんてことを思うけれど、彼は私にはまるで興味ないみたいだ。
(……そりゃそうですよね……)
そのときだった。
藤宮先生のPHSが鳴った。それまで賑やかだった席から音が消え、瞬時に藤宮先生に視線を向ける医師たち。
「はい」
藤宮先生は真剣な表情でPHSに耳を押し付ける。数秒で通話を切ると、藤宮先生は佐伯先生へ視線を投げた。
「……急性大動脈解離の女性のコンサルです」
(急性大動脈解離、というと緊急オペ……。早速藤宮先生のオペだ!)
「お先に失礼します」
藤宮先生は一言告げ、居酒屋を出ていく。
「お疲れ。気を付けて」
「あ、わ、私もお先に失礼します!」
私も急いで藤宮先生を追いかけた。
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