308人が本棚に入れています
本棚に追加
――そして、美矢ちゃんの退院日。
私と藤宮先生は病室に美矢ちゃん一家を見送りにきた。美矢ちゃんは来たときとはまるで別人のような晴れやかな笑顔を浮かべて、小百合さんと荷造りをしている。
荷造りを済ませると、美矢ちゃんは私たちに向き直って「それじゃ、先生またね」と、笑った。
「もう二度と来ないでくださいね」
笑顔の美矢ちゃんに、藤宮先生は真顔で可愛げのない挨拶を返す。
「……藤宮先生ってば」
藤宮先生を肘で小突きながら、じとっとした視線を送ると、藤宮先生は素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「いいもん。私が会いに来るのは音無先生だけだから」
「はい! ぜひ、いつでも、元気なお顔を見せに来てくださいね」
「うん! 恋バナもしようね」
「!?」
私は飛び上がった。
見れば、不審そうな顔で私を見る藤宮先生と、したり顔の美矢ちゃん。
「ちょっと美矢ちゃん!! ま、まさかあのこと、誰にも言ってないですよね!?」
「さぁ。どうかなぁ」
「えー!! ちょちょ、未来のスターが約束を破るのはダメですよ、美矢ちゃん!」
「ははは、冗談だよ。先生可愛いなぁ」
「な……」
はぁ、と息を吐く。
「もう、驚かせないでくださいよ」
美矢ちゃんがこそっと私に耳打ちをする。
「というのも嘘! 実は私も拓哉くんから聞いちゃった! 初恋の人のハナシ!」
「!?」
私は顔を真っ赤にして口を噤む。
「そうなんだ! 俺、美矢ちゃんと連絡先交換しちゃったから、これからも先生の様子はちょこちょこ報告するからね」
「い、いつの間に……」
すると、今度は藤宮先生に目を向けて、にやりと笑う。
「……なんですか、その不気味な笑みは」
「藤宮先生、知ってた? 音無先生の恋愛事情」
「はぁ?」
藤宮先生はさらに眉をひそめた。
「……それ、どういうことで……」
藤宮先生が美矢ちゃんに尋ねかけたとき、
「ほら、真矢。そろそろ行くわよ」
小百合さんが美矢ちゃんを呼んだ。
「はーい! じゃあ私、お母さんと先行ってるね! 行こ、お母さん!」
美矢ちゃんは慎也さんにそう言うと、私たちに元気に手を振って背中を向けた。小百合さんも一礼をして病室を出ていった。
二人を見送ると、慎也さんは私たちに深く頭を下げた。
「先生方、この度は本当にありがとうございました」
「とんでもない。美矢ちゃん、元気そうで安心しました。小百合さんも」
「えぇ、いろいろご迷惑をかけました。妻も素直にカウンセリングを受けてくれていますし……もう少し落ち着いたら、美矢のこともちゃんと理解してくれると思います。それまで、美矢とも辛抱強く待とうと話しました」
「そうですか」
(……よかった)
慎也さんの穏やかな笑顔に、私は心底ホッとした。
「美矢もお二人のおかげで前のように明るくなって……胡桃坂音楽学校を受験するって意気込んでいます。本当に先生方のおかげです。美矢に生きる希望をくれて、本当にありがとうございました」
慎也さんは少し疲れた顔をしているけれど、それでも美矢ちゃんが運ばれてきたときを比べれば幾分か晴れやかだ。
「とんでもない……小百合さんの件、お力になれずに申し訳ありません」
深く頭を下げる藤宮先生を見つめ、慎也さんは穏やかな顔で首を横に振った。
「妻の異変に気付けたのも、先生方あってこそでしたから」
私たちは警察でも、精神科医でもない。私たちにできることは、残念ながらこれ以上はない。
と、思っていると。
「北見さん」
藤宮先生が、慎也さんを呼び止めた。
最初のコメントを投稿しよう!