第四章・名無しの女神は死を願う

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 私たちはしばらくその場で動くことなく、彼らの後ろ姿を眺めていた。  ふと、藤宮先生が美矢ちゃんたちの背中を見つめながらぽつりと呟く。 「北見さんは……来るでしょうか」 「……検査ですか」  どうだろう。慎也さんは今、自分のことより家族のことでいっぱいだ。 「でも、藤宮先生の気持ちは伝わったと思います」 「……そうだといいんですが」 「……それより藤宮先生は、どうして慎也さんが相貌失認だって分かったんですか?」  専門外の分野だ。  藤宮先生は少しだけ言い淀んだあと、言った。 「……最初は精神的なものかと疑いましたが……態度がおかしかったんです」 「態度?」 「病棟内を彼が一人で歩いていたとき、たまたま声をかけたんです。でも、彼は俺を見て困ったような顔をしてなにも答えなかった。違和感を感じて名乗ったらいつも通りになったので、もしやと思ったんです。そうしたら……彼は手帳に細かく人の特徴を書いていました。……音無先生。あなたのことは、そのうさぎのボールペンで判断していたみたいですよ」 「なんと」  私は胸ポケットに指していたうさぎのチャームがついたボールペンを握る。 「全然気付きませんでした……」 (というか、すごい洞察力……) 「……藤宮先生はなんていうか、医師より警察の方が向いてそうです」  たとえば、刑事とか。  すると、藤宮先生はなにかを思い出したように私を見た。 「そういえば慎也さん、事故の件も警察に話したと言っていましたね」 「はい。美矢ちゃんの心のことも考えて、慎重に調査を進めてもらうことになったと。小百合さんも自宅近くの精神科で心のケアをすることになったそうですし、これで慎也さんが検査を受けてくれれば、すべて解決ですね」 「……まぁ、それですべてが解決するとは限らないですが」  相変わらず、藤宮先生の声は淡々としている。 「……そうだとしても、とりあえず美矢ちゃんが生きる希望を見つけられただけでも及第点じゃないですか」  「……そうでしょうか。彼女は笑っていましたが……母親に名前を呼んでもらえないというのは、相当なストレスだと思います。……慎也さんも。相貌失認は、治療法がまだ確立されていない病です。それに……先天性でない場合、多くが脳腫瘍や血管障害が要因となっている。もしそうなれば……」  そこまで言って、藤宮先生は口を噤んだ。 「……二人がいつか、美矢ちゃんのことを美矢ちゃんとしてちゃんと認識できるようになるといいですね」  小百合さんの心は、娘の死という深い傷によって抉られてしまっている。その傷を癒すのは簡単なことではない。  慎也さんも同様だ。彼の頭は、重い病に冒されている可能性がある。もしそうなれば、慎也さんは美矢ちゃんの顔を認識するかどうか以前に、一緒に過ごせる時間すら限られているかもしれないのだ。  小百合さんや慎也さんが、本当の意味で美矢ちゃんのことを理解する日が来るかどうかは分からない。  でも、それでも願わずにはいられない。  窓から、病院の庭を歩く美矢ちゃんたちの姿が目に入る。 (美矢ちゃんが、心からの笑顔で小百合さんや慎也さんと笑い合える日が来ますように……)   でこぼこな三人の後ろ姿に念を送るように、私は手を握り合わせて強く祈った。 「……音無先生」   目を瞑って祈っていると、不意に藤宮先生から名前を呼ばれる。 「はい?」  目を開けると、すぐ目の前に藤宮先生の顔があった。ぎょっとして後退る。 「なっ……なんです?」  警戒色丸出しで藤宮先生を見ると、彼はなぜだかほんの少し傷ついた顔をする。 「……そんなに逃げなくても」 「……す、すみません」  一瞬にして全身が熱くなった私は、手で顔を仰いだ。  そんな私に藤宮先生は小さく苦笑しつつ、言った。 「……ありがとう」 「え?」  突然身に覚えのない礼を言われ、私は藤宮先生を見上げる。 「あなたのおかげで、美矢ちゃんを助けることができました」  藤宮先生の瞳は、うっすらと潤んでいた。私は何度も首を横に振る。 「……私は、なにも」  私は本当に、なにもしていない。むしろ、藤宮先生の方があっぱれだ。美矢ちゃんだけでなく、ご両親の病まで見抜いたのだから。 「あなたが美矢ちゃんの本音を聞き出してくれなければ、彼女は恐怖と孤独に耐え続けるしかなかった。生きようと思い直すどころか、多分また……同じことを繰り返したと思います」  藤宮先生はちらりと小さな美矢ちゃんの背中を見る。  すると、藤宮先生はおもむろに私の手を掴んだ。 「!」  ようやく収まってきていた熱が、その手のせいでまたぶり返す。 「な、なん……!?」  藤宮先生は私の手を握ったまま、 「以前……あなたは美矢ちゃんに、まだ誰も助けられていないと言っていましたが」 「え?」  藤宮先生と、視線が重なり合った。 「……そんなことはありません。本当の意味で彼女を助けたのは、あなたです」 「え……」  私は一瞬、藤宮先生に言われた言葉の意味を理解できず、瞳を瞬かせた。  そして藤宮先生の言葉を理解した直後、全身を電流のようなものが駆け巡って。 (嘘……藤宮先生が、褒めて……くれた?)  私は放心する。 「……え、えっ……!? 藤宮先生! 今私のこと褒めました!?」  藤宮先生は優しく微笑んだまま、私を眩しそうに見つめている。 「わぁっ……初めて! 初めて褒められました! やった!」 「……それから」 「はい!」 「あなたのおかげで、少し気が楽になりました。……ありがとう」 「!!」 (まさかの褒め倒し……!! というか照れた藤宮先生の破壊力!!)  私は頬を紅潮させて、レアな藤宮先生をじっと観察する。すると、藤宮先生は困惑したように私を見下ろして。 「……無反応はやめてくださいよ」 「あっ! い、いえ、その……嬉しくて。私、いつも藤宮先生に助けてもらってばかりなので……力になれて、嬉しくて。……私、もっともっと頑張ります」  藤宮先生はくるりと私に背を向けると、そのまま私の所信表明を無視して病院の中へ入っていく。 (……ち、力になれたとまでいうのは、ちょっとおこがましがったか……ハイ、もっともっと頑張ります)  浮かれすぎた自分を戒め、私も藤宮先生を追いかけようと歩き出す。  すると、藤宮先生は不意に立ち止まって、振り返った。 「……今日は、帰れますか」 「へ?」  首を傾げる。 「送ります」  ぱぁっと視界が煌めいた。 「いいんですか!」 「よくできたご褒美です」 「やったー!」  私は雛鳥のように弾む足取りで、藤宮先生のあとに続いた。  
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