ちいさい愛みつけた

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【♂】    大田洋一はパソコンの画面から目を離し、オフィスの壁に掛けられた時計を見上げた。時刻は昼の十一時を回ったところだった。  このままのペースで作業を続ければ午後のプレゼンにはなんとか資料が間に合うだろう。  洋一は、ほっと胸を撫で下ろした。  この会社に入社してニ年、ある程度の業務は出来るようになったが、それに伴って仕事量も増えてきていた。  今日も朝早くからパソコンのキーボードを叩き続けたせいで、肩が凝り固まっていた。  よしっ、もうひと頑張り。  椅子に座りながら背伸びをする、背後に伸ばした手に何かが当たった感触があり、反射的に「すみません」と謝罪をしながら振り返る。  洋一のすぐ後ろで、六十代くらいに見える小柄で白髪混じりの清掃員の女性がゴミ袋を持ったままこちらを見ていた。  女性は小さく会釈をして何事も無かったかのように通り過ぎていった。  洋一は女性の背中に向かって慌てて声を掛ける。 「あっ、あの! 手をぶつけてしまい、すみませんでした。良かったらこれどうぞ」  この前の出張で購入したお土産の饅頭を手渡した。  女性は無言でそれを受け取ると、また小さく会釈をして立ち去っていった。  この会社では清掃員のパートを雇っており、午前中の短い時間帯にゴミの回収や簡単な清掃を頼んでいた。  部署の人数分ギリギリで買ったお土産だったが、仕方がない。  噂に尾ひれが付いて、女性を殴ったなんて言われたらたまったもんじゃない。  饅頭一つでその危険が避けられるなら安いものだ。  噂と言えば、あの秘密はまだ社内の人間にはばれていないだろうか?  洋一は面倒な事を思い出し、思わずため息を吐いた。  まだ仕事が残っている事を思い出し、急いでパソコンに目を戻した。  昼食を食べ終えて廊下を歩いていると、向かいの角から洋一と同期入社の花山詩織が顔を出した。  腰の辺りまで長く伸びた茶色い髪の毛が彼女のトレードマークで、歩く度に馬の尻尾の様に左右に揺れている。  綺麗に整った小さな顔にスレンダーな体、スーツのスカートからは白くて長い足が伸びていた。  コツコツとヒールの音を響かせながら、洋一に近付いてくる。 「洋一君、お疲れさま」 「お疲れさま、仕事はどうだい?」 「うーん、まあまあかな。そっちは?」 「今日は朝から忙しくて、やっと仕事がひと段落したところだよ」  その後もしばらく他愛もない会話を交わしていたが、急に詩織の表情が真剣なものへと変わった。 「あのさ、例の話だけど」  何の話しを始めようとしているのか気が付き、慌てて声を被せる。 「分かってる、何とかするから! 慎重にやらないと秘密が会社にばれたら面倒な事になるだろ」  詩織は眉間にシワを寄せ、鋭く睨みつけてくる。 「ねぇ、何度も言ってるけど、私はお別れするなんて絶対に嫌よ! 離れ離れになるなんて耐えられないから!」  突然の大声に驚きながらも素早く辺りを見回す、廊下には誰もいない。助かった。 「おい! 社内でその話はしないようにしようって言ったじゃないか、落ち着けって」 「だって、洋一君がはっきりしないから私だって心配になるのよ」 「大丈夫だって、今後の事はちゃんと考えてるから。詳しい事は今夜、僕の家で話さないかい?」  詩織は険しい顔つきを少しだけ緩ませた。 「分かった、いいよ。待ち合わせして一緒に帰る?」 「いや、仕事で遅くなると思うから先に家に入って待っててくれ」 「うん、それじゃあ後でね」  小さく手を振り、詩織は去って行った。  詩織と交際を始めたのは先月からだった、社内でこの事を知っている人物はまだ一人もいないはずだ。  洋一はデスクに戻り椅子に座る、先ほどの詩織との会話について考えた。  珠子の顔が頭に浮ぶ。  ショートヘアに愛嬌のある丸顔、活発でいつまでも子供のように無邪気だった。そのうえ、甘えん坊なところもあり、初めて会ったその日からすでに洋一の心は奪われていた。  珠子との出会いはニ年前で、今でも週にニ、三回は家に泊まりに来る関係が続いていた。  仕事の愚痴を聞いてもらい、一緒にご飯を食べ、朝まで同じベッドで過ごすことも多かった。  珠子との気楽な関係は、洋一にとって居心地の良いものだった。  ただ、このままでは面倒な事になるのは目に見えていた。いずれは全てがばれてしまうだろう。  大きな決断をする時が近付いていた。  洋一は頭を切り替える。  とにかく今夜の詩織との話し合いのためにも、早く残った仕事を片付けなければ。  まだ昼休みの時間は残っていたが、パソコンのスイッチに指を伸ばした。 【♀】  平日の昼過ぎ、通い慣れたアパートの前に女は立っていた。  三階建ての古いアパートの一階にある一番奥の部屋が交際相手である洋一の部屋だ。  今日ここに来たのは、浮気の証拠を掴むためだった。  最近、社内で茶色いロングヘアーの若い女と洋一が親しげに話している姿を何度か見かけた。  女の勘だが、二人の距離は同僚というよりは男女のそれに近い感じがした。  浮気が発覚しても別れる気は無かったが、あの若い女との関係を見過ごす訳にはいかない。  仕事で部屋に洋一がいない事は確認済みだったが、念のためチャイムを押してみる。室内からは何の反応も無い。  鞄から合鍵を取り出し、ドアを開ける。  電気を点けて靴を脱いでいると、廊下の奥から茶トラの猫が近付いてきた、頭を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らす。  最初の頃は怖がって近付いて来なかったが、今では顔馴染みになり受け入れてくれたようだ。  廊下を進みリビングに入る。  いつもの見慣れた風景だった。  キッチンのシンクには朝食で使った食器が水に浸けて置かれており、窓は猫が出入り出来る最小限の幅が開けられていた。  防犯の為に窓の下にはネジ式の鍵が取り付けられている。  さっそく浮気の証拠を探し始める、部屋を見渡すとリビングにあるテーブルの上に置かれたデジタルカメラが目についた。  電源を入れて、新しく撮影した順に写真を見ていく。  同僚との飲み会の写真がほとんどで、あの女と写っているものは発見出来なかった。  ふぅーと長い息を吐く。  浮気の証拠を探しに来たのに、どこかで証拠が見つからないことを願っている自分がいた。  もしかして、あの髪の長い女はただの仲の良いだけの同僚なんじゃないか?  そんな考えが頭に浮かぶと、無断で部屋に侵入して家探しをしている自分が恥ずかしく思えてきた。  昔から思い込みが激しく、焦ると考えるより先に突飛な行動を取ってしまう性格だった。  今回は洋一を信じてあげよう、そう決めた。  来たばかりではあったが、帰ることにした。玄関に向かって歩き始める。  視界の隅にベッドで丸まって寝ている猫の姿が見えた。  最後に撫でてから帰ろうと思い、寝室に入る。  ベッドに腰掛けて猫の頭を撫でてやる、睡眠の邪魔をするなとでも言うように毛むくじゃらの手で顔を隠す。  その姿に微笑みながら、立ち上がるためにベッドに両手を着いた。  手の隙間に不思議な感触があり、目を向ける。  長く茶色い髪の毛が指に絡みついていた。  柔らかく綺麗な光沢を放つそれは、間違いなく会社にいたあの女の髪の毛だった。  血の気が引いて呼吸が速くなる。  覚悟して来ていたものの、実際に浮気の証拠を目の当たりにするとショックが大きかった。  裸で絡み合う男女の姿を想像してしまい、急にベッドが汚い物に見えた。  立ち上がろうとしたが、足に力が入らず膝から床に崩れ落ちた。  音に驚いたのか、猫が走って逃げていく。  床に打ち付けた膝をさする。  負の感情が激しく暴れ回り、眩暈がしてくる。  許せない、ただ若いだけが魅力の女になびくなんて。  涙が流れると同時に、心の中にはどす黒い復讐の炎が燃え始めていた。 【♂】  午前中の頑張りのおかげで洋一は定時に仕事をあがる事が出来た。  社員寮のアパートに向かって足を進める。  家賃が安いのはありがたいが、同じアパートに会社の同僚が住んでいるのは厄介な問題でもあった。    秘密を目撃される危険があるからだ。  直接見られなくても家にいる時の声にも注意しなければいけないし、スーツに茶色い毛が付いていただけでも怪しまれるだろう。  もうここに住み続けるのは限界かもしれない。  そんな事を考えていると、いつの間にか部屋の前まで着いていた。  鍵を開け、中に入る。  電気が付いていないということは、詩織はまだ来ていないようだ。  廊下の電気を付ける。  猫が尻尾をピンと立てて、部屋の奥から走ってくる。  頭を撫でてやると、足に体を擦り付けてくる。  靴を脱ぎ、廊下を進んで寝室に入った。  洋一はベッドに腰掛けると足元の猫を抱き上げた。  顔を近くで見つめながらゆっくりと話し始める。 「なあ、聞いてくれるかい? この社員寮では猫は飼えないんだ。だから、ペットと一緒に住める家に引っ越しをする事に決めたよ。あと、引っ越した先では、詩織とも同棲したいと思っているんだ。彼女には今夜話す予定だけどね。もちろん君も一緒だよ、これまでは半分野良猫みたいな生活だったけど、正式に僕の飼い猫になって欲しいんだ。どうかな?」  猫は洋一の目を見つめながら「ニャア」と鳴いた。  洋一は思わず笑ってしまった、今の鳴き声は肯定の返事と受け取ろう。  その時、リビングの方から床が軋む音がして、体がびくっと跳ね上がった。  振り返ると暗闇に人影が立っているのが見えた、顔まではよく見えない。  洋一は猫を床に下ろし、ゆっくりと立ち上がる。 「なんだよ、詩織。脅かすなよ、来ていたなら電気を点ければいいじゃないか」 「私の事はもうどうでもいいの?」  明らかに詩織のものではない低くしわがれた声だった。  恐怖を押し殺し、怒鳴り声を出す。 「誰だ! ここは俺の家だぞ、出ていけ!」 「猫ですら連れて行くのに、私は新居には連れて行ってくれないのね。つまりは、私は猫以下の存在ってことね」  洋一は覚悟を決めて、リビングの電気を点けた。  そこにはどこかで見覚えのある女性が立っていた。  今朝、手がぶつかった女性清掃員だった。  状況が飲み込めずに混乱している中で、洋一は女性の手に包丁が握られていることに気が付いた。 「ここで一体なにをしてるんだ! 包丁から手を離せ!」 「あんたが浮気したからでしょ! 洋一も、浮気女も、その猫も、全員殺して私も死んでやるんだから!」  小さな体から発せられたとは思えない絶叫に体が硬直する、震える唇からなんとか声を絞り出す。 「落ち着いてくれ、何か勘違いをしているようだ。とにかく包丁を置いて話し合いをしよう」  女は包丁を両手に握り直して、一歩近付いてきた。 「私の事は遊びだったのね、結婚まで考えていたのに」 「待ってくれ、ちゃんと話を聞いてくれ。結婚もなにも僕達は交際すらしてないじゃないか」 「浮気がバレたからって最低な言い訳をするのね。軽蔑するわ!」  全く話が通じない女を前に、洋一はさらに頭が混乱していた。 「そもそも、どうやって家に侵入したんだ?」 「いつまではぐらかすつもり? 家の鍵は洋一が渡してくれたじゃない。私が通るタイミングでわざとデスクの上に鍵を出しっぱなしにして、それを見た瞬間にすぐに気が付いたわ、私に鍵を受け取って欲しいんだって」  以前、家の鍵を無くした事があったが、この女が盗んでいたのか。 「ただデスクに置いてただけで鍵を渡すつもりなんて無かったよ、勝手に持っていくなんて泥棒じゃないか」 「酷い男ね、今度は恋人の事を泥棒扱いするつもり? もう愛情なんて欠片も残って無いんでしょ? その割には今朝も私にだけプレザントを渡して、思わせぶりな態度を取ってくるのね。どうせ私の心を弄んで浮気相手と笑ってるんでしょ?」  洋一は頭を抱えた。 「勘違いをさせてしまったのならすまない、そんなつもりは無かったんだ。朝に饅頭を渡したのは手をぶつけたお詫びのつもりだったんだよ。もう一度はっきり言う、あなたと交際した覚えはない」  女の目に涙が溜まっていく。 「嘘よ、そんなの嘘よ。洋一、浮気の事はもう許すから、そんな酷いこと言わないで」 「すまない、事実なんだ」  女は力尽きたようにその場に座り込んだ。  包丁を床に置き、両手で顔を覆ってその場で泣き喚いた。 「実は薄々気が付いていたの、私なんかに恋人が出来るわけ無いものね。いつも思い込みが激しくて、上手く生きられなくて、また間違えてしまった。ただ、誰かに愛されたかっただけなの、必要とされたかった、寂しかった」  その時、女性の上着のポケットから今朝渡した饅頭が転がり落ちた。  それはとても丁寧に、まるで宝物のようにハンカチで包まれていた。  恐怖の感情は薄れていき、代わりに哀れみの気持ちが湧いてくる。  洋一はゆっくりと女性に近付き、床に置かれた包丁を手に取った。  何か言葉を掛けてあげたかったが何も思い付かなかった。  その時、猫が女に向かって走り寄った、洋一は思わず声を上げた。 「珠子、危ないからこっちに来なさい!」  猫は女のすぐ横に座ると「ニャア」と鳴いた。女は顔を上げて、猫の頭を撫でる。 「あなたの名前は珠子ちゃんって言うのね。慰めてくれてありがとう」  洋一はやっと掛けるべき言葉を思い付いた。 「そうだ、猫を飼うといいですよ。きっと良い話し相手になってくれるはずです。僕もニ年前に田舎から東京に来たばかりの頃は、友達も恋人もいなくて寂しかったんです。でも、珠子と出会ってからはたくさんの笑顔を貰いました」  女は何も言わず、愛おしそうに猫の頭を撫で続けた。  洋一は携帯電話を取り出し、警察に通報した。  結果として、警察への被害届は取り下げる事にした。  その代わり、今後一切の接触を禁止した。もちろん、職場も変えてもらうことになる。  詩織からは対応が甘過ぎると叱られてしまった。  来月からは社員寮を出て、新居で二人と一匹の生活が始まる。  もし、気の強い詩織に叱られてしまった時は、今まで通り珠子に愚痴を聞いて貰うとしよう。 【♀】  新しく始めたばかりの仕事の帰り道を歩きながら、女はため息を吐いた。  ただでさえ重い足取りは、腕に食い込んだスーパーの袋によってさらに重くなる。  やっとの事で自宅にたどり着いた、もう疲労困憊だった。  玄関のドアを開ける。  小さな白い子猫がよたよたとした足取りで出迎えてくれた、女は自然と口角が上がるのを感じた。 「ただいま。遅くなって、ごめんね。お腹空いたでしょ? すぐご飯を用意するからね」  スーパーの袋から大きなキャットフードの袋を取り出し、廊下を進む。子猫は女の後を一生懸命に着いて歩く。  餌の皿にキャットフードを入れながら、女は子猫に話し掛ける。 「今日ね、お仕事すごく大変だったのよ。いつもみたいに掃除してたらね、あの上司の女がすごく嫌味な事を言うのよ。もう、嫌になっちゃう」  子猫は空腹だったのか、餌の皿に頭を突っ込んで一心不乱に食べている。  そんな姿を見ていると、次第に女の心は幸せに包まれていった。 「そんなに急いで食べなくても誰も取ったりしないから、ちゃんと噛んで食べなさい。あぁ、お水も溢しちゃって。もう、ヨウイチはそそっかしいんだから。ふふっ、でもそんな所も大好きよ」
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