かつて、大地は球体だった

1/4
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
僕は自分の背丈ほどもある草むらの中を、必死にかき分けるようにして進んでいた。 雨季が近づき、ツルは縦横無尽に伸びて僕の足や顔に不意にまとわりつき、まるで自然の守り神が僕を拒むかのようで、同時に湿気を含んだ土や草木の懐かしいような匂いは、精霊が僕を誘うかのようだ。 こんなところ、それ相応の目的がなければ絶対に足を踏み入れることなんてない。 この、道なき道の先に、真実(まみ)が生活している。 17歳にして、常識を捨て、世の中を捨て、そして僕を捨てた少女、真実。 彼女がこの自然に囲まれながら一人信奉しているその教義は、人類が今なお解明している途上の自然科学に対し真っ向から反しているのだから、あまりにも皮肉である。 もともと真実は、近所に住む、いたって普通の女の子だった。 小さい頃からお互いの家に行って遊んだり、学校に行くようになってからは、真実の方が成績が良いため僕に勉強を教えてくれたり、 そして、成長するにつれて、僕はだんだんと真実を異性として意識し出すようになり、この関係がいつか恋へと発展する日を密かに望んでいたのだが…。 真実の方は、恋愛どころか、子供じみた奇妙なことにばかり興味関心を抱く、いわゆる不思議ちゃんへと、どんどん変貌していった。 全ての元凶は、真実の父であろう。 真実の母は出産と同時に他界したため、真実は父親の男手一つで育てられた。 しかし困ったことに、この父親というのが大変なくせ者であった。 真実の父は、町内では知らぬ者が居ない、超が付くほどの変人だったのである。 ある時は、空の向こうから宇宙人が赤外線で我々を監視していると言って、どう見ても空飛ぶジェット機の灯の写真を町中にばら撒いた(念のために言うが、そもそも赤外線は自然界に普通に存在するもので、かつ、人間の目には見えない)。 またある時は、どこぞの山奥に、超人がこの世界全体にエネルギーを供給する大きな穴があると主張し、探検のための資金を募った(勿論、びた一文集まらなかった)。 ひどい時には、「この空は巨人によって作り出されたガラスの球体である!」と主張し、ばかみたいに巨大な白熱電球を自ら製作して空を照らした挙げ句、その電力は近くの変電所からこっそりと違法に繋いだ線から供給されていたせいで、僕の家を含む辺り一帯が一斉に停電してしまったりしたこともある。 普通であれば、こんな人間が父親だったらとっくに家出してもおかしくないが、真実は、このロクでもない父を愛し、そして、父の主張を信じ続けた。 実の父を疑いたくなかったのかもしれない。 いや、もしかしたら、変人扱いされる父親の理解者でいられるのは娘である自分しかいないと思って、自己催眠に等しい状態に陥ってしまったのかもしれないが…。 そしてある日、決定的な出来事が起きた。 真実の父は、「この世界に纏わる偽りと全貌は、今こそ遂に明らかになった!」と題した文書を近所中で配布した。そこには、こう書かれてあった。 『我々が住んでいるこの大地は丸いと考えられており、ゆえにここを「地球」と称しているが、そうではなかったのだ。我々は丸い大地の上にいるのではない。箱庭の如き平らな大地を、丸いガラスか何かで覆っているのだ。海に面した、我々の住む町。ここから海にでて、水平線のはるか先を目指せば、きっと世界の端に辿り着き、その何かにぶつかることだろう』 ここまでであれば、最早僕たちにとっては、すっかり慣れっこのことであった。 ところが、真実の父は、自作のヨットで一人海を渡り、世界の端を目指すと言い出したので、さすがに皆は動揺し、必死に止めようとした。 「待ちなさいって。いい加減目を覚ましたらどうなんだい」 「もしものことがあったら、娘さんはどうなるんだ」 「あんたは自分の好き勝手してるだけのつもりだろうが、それがいろんな人に迷惑かけるってこと、考えたことあるのかい?」 最後はもう説得というより痛罵に近かったが、いずれにせよ真実の父の決意を翻すことはできなかった。 そして迎えた旅立ちの日。 「諸君!いよいよ世界の秘密を明らかにするときが来た!いずれ諸君は思いもよらない世界の姿に刮目することとなるであろう!」 僕たち近所の者は皆、その大演説を心底うんざりした顔で聞いていた。そんな中でただ一人、真実だけは目を輝かせていたが。 真実の父は、2年後には帰ってくるとの約束だった。 だが2年後、真実の父が持っていたと思われる物が、海岸に漂着した。 それから程なくして、真実は家を出て、僕の家から数キロ離れた、草原に囲まれた断崖で一人、野宿生活を始めた。 1か月前のことであった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!