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信号が変わった。人の群れが一斉に動く。
真夏の熱気がゆらゆらと揺れてアスファルトが軋むように見えた。自分も早く前に進まないといけない。なのに足が竦んで動かない。
「ママ、どうしたの?」
握った小さな手が汗ばんでいる。人の波に飲まれる自分を心配してかけられる娘の言葉に、我ながら滑稽なほどに慌てて頷いて、その手を引っ張り横断歩道を渡った。
ダメだ。離婚してから少し経ったが、あの大嫌いだった家での生活をまだ過去に出来ないでいる自分は、ちょっとの隙を突いて崩れ落ちそうになる。
「ママ、歩ける?」「大丈夫よ。七菜、おばあちゃんの所まであとちょっとだね」「うん」
決められた面会日はこの第一日曜日。あの忌まわしい家までこの子を送り届けないといけない。
「ママ?」
心配そうに顔をのぞき込む娘。
「うん、ごめん。なんでもない。また夕方にはお迎えに行くからね」
あんな家は門構えでさえ見たくない。なのにこの愛しい我が子を送り出さないといけない。それは自分の心に反するもので。
けれど母親として誓う。絶対にこの子に悲しい顔は見せないと。
******
和菓子屋【あやなみ】に嫁いだのは、28の時だった。「あら、可愛らしいお嬢さんで安心したわ」という同居の姑の言葉が「子供はまだ?」に変わったのはいつ頃からだっただろうか。
朝五時前に起きての和菓子屋特有の生活リズムは、正直きつかった。
朝生作りから始まり、舅、姑、夫と四人のご飯の支度をして、洗濯物を手早く干す。それから息をつく間もなく店に入る自分は、とても妊娠の余裕なんてなかった。想像すら出来なかった。なのに。
「あんた、子供が出来たんだって?」
今思い起こせば。その頃からもう姑との間に亀裂が走っていたと思う。
「ええ。昨日病院に行ってきました」
「そうなの。男の子ならいいんだけどねえ」
「……え?」
「この店の跡取りが必要なんだからさ」
今の時代にそぐわない言葉の数々。やめて欲しかった。けれども自由に反論できない自分がいつもその家には存在していた。
酷い悪阻を我慢して家事の手を一切抜けず、娘が無事に産まれたあとは、次は男児を! と言われることが辛かった。姑も華やかに嫌味を放ち、それをきっかけに旦那とはますます疎遠に。
その後はよくありがちな結末、離婚を迎えたのだった――。
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