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まったく、女性なんていいもんじゃない。と天沢は思った。なんというか、まるでカラバケツのような存在じゃないか。 結婚生活は、中の水が無くなったらすぐに満杯まで注げと言われているような感覚だった。 天沢はラウンジスタッフに声をかけ、珈琲を頼む。自分の嗜好を分かっているスタッフは、砂糖だけをつけてすぐに持ってきてくれるので有難い。昔はこのホテルで弾いた時もあった、と思い出したその時だった。 「天沢さん」 ソフトな声がして顔を上げると、1人の男性が立っていた。 「お、辰樹(たつき)じゃないか!」 天沢は立ち上がった。 辰樹 政信(まさのぶ)。このラグジュアリーホテル【アヴェニール】 のマネージャーである。 「久しぶりだな」 嬉しくて思わず声が上擦った。 「ほんとだよ! 君はピアニストとして売れっ子になってからまったくこっちには来てくれなくなったんだから、寂しいもんだよ」 天沢は立ち上がり、辰樹の手をぐっと握りしめた。自分がピアニストとして認められるまでの間、よくこのホテルロビーのピアノを弾いていた時代がある。辰樹とは、その時代に知り合ったのだ。 「今日はどうした? どこかへ演奏会か?」 「そうだといいんだが。君も知ってるだろ? 俺が挫折したこと」 天沢が言うと、辰樹は少し目を逸らした。 「ふぅん、じゃ、今は休養期間てわけだな?」 「そんないいもんじゃない」 「いや、躓いた時は少し肩の荷を下ろすのもいいものさ」 相変わらず爽やかな事を言う男だ。 「肩の荷ねぇ、そうだな。今までは自分でも驚くほど各地を飛び回っていたから、少し日本に滞在してゆっくりするのもいいかもな」 少し肯定してみる。 「そうさ。そうだ! 良かったらうちで泊まってゆっくりしていけよ」 それは思ってもみない提案だった。天沢は几帳面そうな、その男の顔を見る。 「俺が手筈するよ。君は何も心配しなくていい。そうだな、1週間くらいどうだ?」 「え、あ……まあ。うん。そうだな」 1週間経てば、ちょうど書士のほうから連絡があるだろう。それまでの余暇として考えるのならばいいのかもしれない。考えてもみなかった方向へと話は転がる。 「君にはハイクラスを用意するよ。気がのったら、そこのロビーのピアノでも弾いてくれたらいい。昔みたいに」 暖かな春風が通り過ぎたような気がした。 気がついたら頷いていた。 「よし、決まりだな」 辰樹は嬉しそうにクシャッと笑った。
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