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天沢は代々音楽一家の長男として育った。当たり前に音楽が身近にあり、多種な演奏者が家に集う事が当然の環境だった。 成長し、大きくなるにしたがい、自分もその道を選ぶ事はなんら自然な事だったのだ。 「躓く、か」 反芻してみる。 妻の華蓮は、これまた音楽一家出身のモデルだった。ピアノ雑誌のインタビューがきっかけで出会ったわけだが、恋心は真夏の花火のように激しく燃え上がり、ひといきに灰となった。 離婚のきっかけは父の死だ。 ピアノ、バイオリンと愛した父は、自分にとって当然肉親であり、先に生きる師でもあった。常に尊敬していた。彼が発するユニークな人生話はいつも自分にとって支えであり、まさに敬愛の対象だったのだ。 しかし、天沢がいつもと同じくピアノを鳴らし、演奏会への段取りをしていたところに父親が車の事故にあったと病院から連絡が入ったのだった。駆けつけた時にはすでに虫の息。なぜ、だれが、という犯人探しは不明のまま終わった。警察からの連絡は遠のいた。 それからだ。弾けなくなったのは。 ピアノの前に座ると、指が震えるのだ。 「トップの貴方が好きだった」という言葉を悪びれなく華蓮は申し、去っていった。 女なんて、いいもんじゃない。あんなに愛し合っていた時は「貴方を支えたい」「好き」と言い続けていたのに。あの女。どんなに金を使ったか。あの女に全てを吸い取られた気にすらなる。 「くそっ」 いま、何もかも上手くいかない。人生って、なんなんだ? ピアノが無い今の自分はどこにベクトルを向けたら良い? 分からない。 「天沢様」 気がつくと、ショートボブの可愛らしい女性がそばに立っていた。 「はい?」 「天沢様ですね? お部屋までご案内致します。どうぞこちらへ」 ネームプレートには【清川 莉子】と明記してある。 ああ、そうか。早速部屋を用意してくれたんだな。やはり行動の早い男だ。 「ありがとう」 天沢は、海外から戻ってきたままの大きくないキャリーバッグに手をかける。さて、どんな1週間になることやら。 「お荷物お持ち致します」 「いや、いいよ」 女性に荷物なんて持たせられない。天沢は断った。 「……どうぞこちらへ」 断った天沢にニコッと笑って、彼女はエレベーターへと案内を始めてくれた。
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