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 調停で決められた約束事は絶対だ。 面と向かって、七菜の手を握り、この後の仕事をドタキャンする勇気はなかった。 そもそも離婚したときに相当神経をすり減らして生き地獄だったし、そこから精神的に回復をしていない。 仕事の信頼まで失ったら最後だ。 ……自分が望んでやっと手に入れられた離婚なのだけれど。  率直に言えば、なるべく波風を立てたくない、それが今の正直な気持ちだった。彼女には帰ってもらうとして、あとでどういうつもりか個人的に哲也に連絡をとろう、そう思ったのだった。 「……分かったわよ。さーあ、七菜はなにが食べたいかしら?」  姑に手を引かれて綾波の家に入る子を見送って、莉子はなんとも言えない気分になった。  自分は変わりたいのに。 なんでも言える人間になりたいのに。 しかし、結婚していたときも離婚した今も、変われない自分がそこにはいた。 志乃さんと舅が立ち去って、家門で二人きりとなる。 「莉子、ちょっといいかな」  哲也が細い目をより一層細くしてこちらを見ていた。 「なに?」 「オレ、再婚するんだ。だから七菜には毎月は会えない」 「は?」 「志乃のお腹の中に子供がいてさ、多分男の子なんだよ」  悪い、というふうに後頭部に手を当ててそう告げられた。 「え……、いつの間に?」  口をついて出たのはそんな言葉だった。だって、早くない? 別れてまだ少し。もう性別が分かるだなんて……? 「莉子とはきちんと別れたし、養育費はきちんと毎月払うよ。それで文句はないだろ? 母さんも毎日うるさくてさ。早く跡取りをって。だから」  いつもは寡黙な人が一気に何かを押し広げるように喋り出すのを、莉子は呆気に取られて聞いていた。 「だから七菜のことは頼むな」 「え……」  頼むなって……。そんな。あなたは娘に会えなくてもいいの? 別れてお終いに出来るの? そんな彼の感覚が信じられなくて、莉子はにわかに顔が引きつった。 「そんな顔すんなよ。オレもつらいんだよ。莉子も早く再婚しろよ。あ、雨」 冷たい雨粒が莉子の頬に落ちた。 哲也は両手を広げて雨を確認すると、「じゃあ」と、にべもなく背を向けて家の中に入っていったのだった。
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