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莉子が見ている限り、この時間、智美が取り乱すことは一切なかった。
隼人を納得させ、サインさせた書類に目を通すと頷き、天沢には頭を下げて礼を述べていた。
「隼人、俺にできることはあるか?」
天沢は言葉少なかった。
「お金、お金貸してください!」
隼人でなく、美桜が口を出す。
「……また二人でゆっくり会おう。な」
天沢は、そんな美桜を無視して隼人にそう声をかける。
それから静かに玄関を出て行った。
彼の帰る姿を見たとき、智美の旦那とどういう関係なんだと訊きたくなった。
でも早くこの悪い空気を断ち切りたくて、なんとなく声をかけられないままだ。
不完全燃焼と言ってもいい。
「俺、今日から美桜のところに行くわ」
少しばつが悪そうな隼人と、その言葉に嬉しそうにする美桜。
「ねえ、ちょっと、いいかしら?」
その二人に声をかけたのが涼子だった。
「佐藤さんって人の家庭壊しておいて、すごいですよね」
完全に涼子の目が据わっていた。
「りょ、涼子」
「一言くらい言わせてよ」
「でも……」
「さっきの智美の泣きそうな顔見たら頭に血が上るよ!」
涼子はただでさえピリッとした美人のムードをまとっている。そこへ眉をつり上がらせてはっきりとものを言うもんだから、美桜は口をぽかんとあけて固まっている。
「命かけて子供産んで育ててる人をこんな目に合わせて、あなたは何とも思わないの? それとも結婚するほどそんなにその男のことが好きなの!?」
「え……? 私、結婚とかは考えてないですけど」
「そんな無神経で無責任なあんたなんてすぐに痛い目みるよ! だいたい謝罪の言葉もないわけ!?」
「あー……そうですね。謝罪はきちんとします」
そう言って、美桜は智美のほうを向いた。
「この度は、大変な、ご迷惑をおかけして、申し訳、ございませんでした」
棒読みだ。
そして、悪びれなく、
「あのー、でも奥さんも悪くないですか?」
と言ったのだった。
「はああ!?」
掴みかからんばかりの涼子をなんとか止めようと莉子は間に入った。
「頭おかしいわよ! 二度と帰ってこないでよね」
「ちょっと、涼子!」
「そうよ。二度と会いたくないわ。子供にも会わせない」
智美は言い放った。
隼人は、まるでその言葉から逃げるように、ほぼ着の身着のままで美桜の手を握って出ていく。そんな男の姿に莉子は一瞬だけ哲也を重ねた。
ああ、男の人ってみんなこうなんだろうか? どうしてこうなんだろうか?
離婚は、自分にも非があったんだろうか?
そんなことが頭の中いっぱいに占めて、胸がギュッと苦しくなる。
智美に対して感じた一瞬の恐怖―――それは、彼女が壊れそうだと感じたからだと思う。さっき、泣きそうな顔を一瞬だけ見せたのは、ずっと本当の気持ちを奥底に沈めていたのだろう。
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