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「志乃お嬢さんはな、もう綾波との婚礼は決まったんだ。あそこで落雁を売りにするらしい」
「落雁……ですか?」
「ああ。志乃さんらしいよな」
「……」
姉の優華さんはクラシックな考えを重んじている。志乃さんはその真反対だ。新しいものを切り拓こうとする人だった。そして、彼女には確か、落雁に対して思い入れがある。
亡くなった祖父が、落雁をとても愛したのだ。
その祖父に志乃はとても可愛がられていた。きっと今でも大切に思っているんだろう。
「……あの人は愛情不足だから、お前には合わねえよ」
「愛情不足? 違うんです。俺が、俺があの人を幸せにしたいんです」
恭太はハッキリと言い切った。
「店での毎日が辛かった頃、志乃さんにだいぶ助けていただきました。本当は優しい人なんです」
「あー、こりゃ、いけねぇな」
何も分かってねぇ、と内心舌打ちする。大村は卵焼きに紅しょうがが少しのせて口に運ぶと、「美味いからお前も食え」と小皿に分けた。
「それを言えば、俺だってお前を助けたじゃねえか」
「え? それはそうですけど……」
「なんだ? お嬢さんには感謝して俺には無しか?」
「いいえ! 滅相もない!」
恭太がそう慌てると、大村は豪快に笑った。
「ま、忘れろ。なにせ相手は人妻だ。倉持、自分では分かっていないようだが、お前は職人に向いてる」
「俺が、ですか?」
「ああ。なんでか分かるか? 不器用だからだ。不器用な人間ってのは宝なんだよ。器用な人間に職人は長年務まらねえ。他に目移りしちまうからな。今の流行りのケーキだのって、金儲けのほうに」
「……」
恭太は柔らかく煮込まれた牛すじを口に放り込んで聞いていた。大村がそんな諭すような事を言うのは珍しいからだ。
「だから女に対してもそうなんだろう? だがな、志乃さんはやめとけ。お前には合わねえ。これは命令だ」
言い終わると、大村はくいっとビールを空にして、もう一杯頼んだ。
「……俺の子かもしれないんです」
「あ?」
「志乃さんのお腹の子供は俺の子供かもしれないんです。こういうのって、どうしたら……」
「倉持……おまえ……」
大村は箸でつまんだコンニャクをその間にして恭太の顔を見つめた。
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