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 近くの公園で、僕が買った缶コーヒーを飲みながら、緑のおじさんはゆっくりと話してくれた。 「三十年ほど前、たしか私が四十を過ぎた頃です。当時の私には妻と一人の息子がいました。  その息子が十八を過ぎた頃、突然車が欲しいと言い出しました。それから高校在学中に免許を取り、高校卒業後に働きながらお金を貯めて、半年ほどで車を買いました。よく覚えています。赤色のボディで、エンジン音が虎の咆哮みたいで、初めての車にしては随分と派手なものを買ったなと思いました。私はもっと乗りやすそうな車にするべきだと思いましたが、息子のお金なので何も言えませんでした。  車を買ってからしばらくは、それほどスピードも出さずに乗っていたみたいです。何せ初めての車で、運転技術もままならない状態ですから。その辺りは息子も理解していたようです。  ただ、人間という生き物は慣れてくると余裕が出てきます。息子も例外ではありませんでした。  その日は朝から雨が降っていて、路上も滑りやすくなっていたのだと思います。おまけに歩いている人たちは雨を避けるために傘を差している。雨の日はブレーキが効きづらいからゆっくり走るべきです。だからあの朝も、妻があまりスピードを出しすぎないでと息子に言いました。だけど、息子はその忠告を聞かなかったようです」  それから緑のおじさんはフッと小さくため息を吐いた。どんよりとした吐息は、僕の目を細めるものだった。 「息子は車を使って会社まで通勤していました。ただ、その日は視界不良になるほどの雨だったから、道路が混んでいたのでしょう。おそらく、思ったよりも時間がかかってしまったんでしょうね。この辺りは見ていないから真相が定かではありませんが、息子はかなり慌てていたのだと思います。だから、会社の近くにあった小学校付近の横断歩道に、ランドセルを背負った小さな子供がいたことすら気づけなかった。確認もしなかったのでしょう。そして渡ろうとした子供も、おそらく傘をさしていて車に気がつかなかったのだと思います」  横断歩道を渡る子供と、それに気がつかず車を走らせる息子。想像は容易だった。 「普通に走っていれば気づけたはずです。もしくは横断歩道があることをあらかじめ把握しておけば、自ずと減速できていたでしょう。だけど、息子は慌てていて急いでしまった」   緑のおじさんが一報を受けたのは、少し後の話だった。 「警察から電話を受けたとき、唖然としました。人生で初めて頭が真っ白になりました。どうしたらいいのかと考えても、思考回路がしっかりと機能しないのです。警察の方の話を何度か聞き返して、ようやく事態が把握できましたが、それでも震える手を止めることはできませんでした」  警察から聞いた話によると、息子は子供を轢いた後、焦ってその場から立ち去った。そして数百メートル先の電柱に激突した。フロントガラスが粉砕し、車体も前方が丸められた紙のようにくしゃくしゃになっていたらしい。 「轢かれてしまった子供も、そして事故を起こした息子も即死でした。二人とも打ちどころが悪かったようです。騒然とする街の中で、現場に着いた私と妻は、ただ棒立ちするしかありませんでした」 「そんなことがあったんですね」   それが僕の言えるすべてだった。 「ええ。かれこれもう三十年ほど前ですが、あの日の記憶は鮮明に残っています。決して忘れることができません」  心臓が痺れるような感触に襲われ、その後ジンジンと痛み出す。胃はキュッと締め付けられ、脳内には排気ガスが充満している。その中で、僕は転がったランドセルと、潰れた赤い車と、突然この世からいなくなった若者たちを想像する。雨に打たれた抜け殻は酷く冷たくなってしまっただろう。それを見つめる魂は、ただただ虚しい感情しかなかったに違いない。いや、もしかすると現実を受け止められていなかったかもしれない。あるいは気づかずままこの世からフェードアウトしてしまったかもしれない。いずれにせよ、彼らは事故で死んだ。長いはずの人生がポキッと折れてしまったのだ。 「悲しい出来事です」  僕が言うと、緑のおじさんも「その通りです」と答えた。 「悲惨としか言いようがありません」
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