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奥座敷の真実
大奥様の志津子に先立たれてからは、別棟で一人で過ごす啓一郎のことは、菊乃が世話をしている。
すっかりおとなしくなった啓一郎は最近口数がすくない。
菊乃がそちらに専念するために、息子の恭弥がこの家の執事のとしての菊乃がしていた仕事のほとんどを正式に引き継いだ形となった。
恭弥は、碧斗が父の会社に就職してきて、自分が碧斗の専属の秘書になると、家での立場も伸彦付きの執事の浅倉に続くナンバー2の立場になった。
奥の別棟は古い造りで、昔はこちらが母屋だった。
新しく今の建物がたち、こちらは取り壊される予定だったが、啓一郎はこの建物をとても気に入っていたので結局取り壊されることもなく、今でもこちらで過ごす。
こちらの建物はもう古く、渡り廊下の向こうの使用人たちの住まいと、こちらはリビングと啓一郎の過ごす奥座敷以外はほとんど使われていない。
古い分、しっかりとした造りの日本家屋で、柱も梁も太く、古いお寺のような、平安時代の屋敷のような佇まいだ。
まさかその奥座敷でひっそりと面倒を見てもらっている大旦那様の啓一郎が、親子ほど年の違うこの菊乃の事を、遠い昔、本気で愛していたとは誰も思っていない。昔、小夜子として出会った人が菊乃だったなどということも…。
菊乃は志津子が死ぬまで絶対に連れ子の恭弥の素性を明かすことはなかった。
恭弥の父親である啓一郎にさえも。
最近の啓一郎は、自分や周りの人や物事をうっかり忘れることが増えていった。
でも、しっかり覚えていることがあった。
それは小夜子とのこと。二人だけしか知らないあの頃のこと。
啓一郎はよく菊乃にそんな昔話をして聞かせる。
菊乃にとってはそれだけが唯一自分が遠い昔に愛された証として密かな悦びを感じていた。
*
今日も変わらず、旦那様はわたくしにまた同じ話をしてきかせる…。
「私はね、お見合いなんかしたくないと言ったんだ。それなのに父さんも母さんもおじいさまにも聞いてもらえなかった。志津子は自分にはもったいないくらいの人だったよ。だけどね…。
私は家と家との都合で結婚させられ婿としてここにやって来た。わたしは志津子を本当に大切にするよう努力してきた。そして、伸彦が生まれて。わたしはこの家に全てを尽くして生きてきた。だけど、ある時そんな家に尽くすばかりだった私の前に現れた人がいたんだ。わたしは密かにその人に想いを寄せた…。いいとししたジジイがね。娘くらいの年の女性に、本気で恋をしたんだ…小夜子に。」
いつものようにそうやって昔話をなさる。
目の前にいるこの菊乃がその小夜子だということは、今、旦那様は夢にも思っていないんでしょうね。
「菊乃、君はその小夜子に少し似ているんだ。だから、小夜子と呼ばせて貰ってもいいかね?」
「ええ、構いません。旦那様。お好きなようにお呼びくださいませ。」
「その頃水商売をしていた小夜子はね、とても美しくて、清らかで、誠実なひとだったんだよ。君みたいにね。
もう、おそらく二度と会うことは無いだろう。」
旦那様…。
菊乃は乳飲み子を抱えて女手ひとつで頑張ってまいりました。
子育てしながら住み込みで働いて頑張ってまいりました。
愛するこのかたのおそばで。
この家の使用人として。
このかたに密かに想いを寄せながらも、それを必死に隠しながら…。
それをそばで聞きながら涙をこらえる。何度聞いても涙が出る。
この話はもう、耳にタコが出来るくらい、何度も聞いた。
当時聞けなかった愛する人の気持ちを、今になってこうして聞けることだけが、幸せな時間だった。
あぁ旦那様…。
私はあの晩の小夜子です。
小夜子と言う名はその場で取り繕った偽の名前です。
あの時の小夜子はこの菊乃なのでございます。あの晩あなたと結ばれた私は恭弥をお腹に授かりました。
図々しくもあなた様の元に押し掛けたわたくしを、あなたはとても優しく迎え入れ、私を雇ってくださった。
そんなわたくしを小夜子と気づいていたのか気づかなかったのか私にはわかりません。
ですが、あなたは本名の菊乃として、わたくしをそばにいさせてくれました。私はそばにいられるだけでよかった。この子は誰にも知られずに生もうと決めました。会社を継がれ、多くのものをお一人で背負っていらっしゃる啓一郎さんに迷惑はかけられないから。
あなたは今まで私によくしてくださった。もう、それだけで充分でございます…。
*
「ああ、菊乃さん、いたのか。」
啓一郎は菊乃の顔を見つめている。
菊乃はその優しい眼差しに愛おしい想いを込めて見つめ返した。
この人は知らない。
すぐ目の前にいる菊乃が小夜子だと言うことを。
いつもそばにいる恭弥が、自分と菊乃の子供だという事実を。
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