菊乃

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菊乃

 今日は満月。  わたくしは、この満月を見上げる度に昔のことを思い出すのでございます。  わたくしがこのお屋敷に来たのはわたくしが29才の年でした。  恭弥をお腹に宿した頃、わたくしは何食わぬ顔をして啓一郎様の前に現れました。  啓一郎様にとってわたくしなど、一度、情を交わしただけのゆきずりの相手だったことなど充分理解しておりました。  恐らく、わたくしのことなど顔すらもよく覚えていらっしゃらなかったことでしょう?  そうです、それは、こんな満月の夜でした。  当時、水商売をしていたわたくしは、お客様でいらした啓一郎様のお相手をし、そのままゆきずりの一夜を過ごしました。  そうしてお腹に子供を宿した…。  わたくしは腹いせのつもりで、そのお客様だった啓一郎様のお名刺を頼りに会社を訪れ、何食わぬ顔をして従業員募集に申し込みました。これは私ささやかなの復讐のつもりでしたのに。  やはりあなた様はわたくしとのことなど覚えておらず、話題にも触れませんでした。面接後、採用され、事務員として働くことになりました。  ですがわたくしが妊娠していることが発覚すると、社内での業務は難しいとの話になりました。当然でしょう。  その日もこんな満月の夜でした。  その月を見ながらわたくしは最後に恨みを晴らすつもりで、全てをばらし、言いたいことを言ってからそこを去ることを月に誓ったのでございます。  ところが旦那様が思わぬ提案をしてくださいました。旦那様のお屋敷での住み込みの使用人としての仕事の依頼でした。  生まれてくる子供を連れての職探しや二人での暮らしは大変でしょうと旦那様が情けをかけてくださった事を今でもよく覚えております。  わたくしはなんて恩知らずだったのでしょう。  一夜の過ちとはいえ、旦那様に恋したわたくしはもう二度と、この旦那様に恨みを晴らすなどと考えまいと心に深く刻みました。そしてこのお屋敷で仕えることを決めたのでございます。  ちょうどその頃、海外留学から戻って来られた若旦那様の伸彦様が帰国してすぐに奥様となられる美智子と出会い、美智子が妊娠し、まもなく結婚、それと同時に同居をされるタイミングで、今の新しいお屋敷が敷地内の隣に完成いたしました。  啓一郎様の奥様である志津子様はその結婚に反対しておられました。それでも美智子様はこちらに嫁ぐこととなりました。  伸彦様とお腹の大きかった美智子様がここで同居を始めたころ、ちょうどわたくし菊乃は恭弥を連れてこちらで働くこととなりました。  新しいお屋敷では、美智子様はまもなく生まれるぼっちゃまをとても楽しみにしておいででした。恭弥とは二つ違いのその子をわたくしも大変楽しみにしておりました。  それからまもなく誕生されたぼっちゃまは碧斗様と名付けられました。  そうして生まれてきたぼっちゃまのお世話は殆どをわたくしががしておりました。  大奥様の志津子さまは、碧斗坊っちゃまを美智子さまが抱くことを気に入らなかったのでございます。
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