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エピソード1~君から聞こえてくるメロディ~
あれからボクは今でも時々、無性にピアノが弾きたくなる…。
*
お客様用に用意された離れのサロンの中庭に面した大きなガラス窓の脇にひっそりと忘れられたように佇むグランド・ピアノはお婆様がいつも使っていたものだ。
お婆様はいつもボクを横の椅子に座らせ、優雅に指を鍵盤の上で踊らせた。
それを聞きながら小さい頃はお婆様とよくここで過ごした。父さんも子供の頃はピアノを習わされていたし、僕も同じように習わされた。
長いタクトをいつも手にもった僕のピアノの先生の小百合先生は、ミスタッチをしたと言ってはそのタクトでテーブルを軽く何度も叩いた。神経質な顔をして、イライラしながら。そんな時は小百合先生から嫌なメロディが聞こえてきた。
お婆様の前ではいつもご機嫌で、へらへら、ヘコヘコしているくせに。僕と二人になると、そうやってイラついた顔をよくしたものだ。
あんなに最初はピアノを弾くのが楽しかったのに。ボクはこの小百合先生を見るたびに嫌な気持ちでいっぱいになった。お婆様の弾く曲を、耳で覚えて自由に弾くのが何より楽しかったのに。
あれからボクにとってピアノは楽しいものから辛いものに変わった。
だから、随分長いこと、このピアノの蓋を開けることはなかった。ここに来て座ると、あの時の嫌な光景が目の前に現れる気がして。あのタクトで叩く嫌な音が今でも僕の耳に響き渡る気がして。
だけどある時…。
ふと、なんとなくこの部屋に奏太がはしゃぎながら入ってきて、追いかけてボクも久しぶりに入った。
あれは奏太が幼稚園に通うようになった頃…。
懐かしいこの部屋は、壁にお婆様の若かりし頃の肖像画が飾ってあった。
あの頃はお婆様も若かったしボクに優しかった。いつもボクを膝にのせ、ピアノを弾きながらいろいろな歌を口ずさんだ。
「パパ、こっちきてー」
ボクを呼ぶ奏太の声でふと我に返る。
奏太がグランド・ピアノの下に隠れてニコニコしている。
「パパ、どーこだ」
奏太は自分が見えてないと思ってる。あれでも隠れてるつもりだ。
「あれ?奏太、どこいった?」
わざと探すふりをして。ピアノの下は敢えて見なかった。
「どこ行ったかな」
そう言いながらピアノに近づき、なんとなくそっと蓋をあけた。フェルトの柔らかい肌触りが懐かしい。椅子にそっと腰かけると、自然と指が鍵盤の上を辿り始め、指先が勝手に動き出す。
何年ぶりかに触れた鍵盤の感触も、すぐに感覚を取り戻す。ピアノの調律師が今でもまめにやってきては、手入れをして帰っていく。時々今でも弾く父さんのために。
目を閉じると、自然とあの楽しかった頃のピアノの曲が僕の耳にこだまする。指がその動きを覚えていて、鍵盤の上をボクの意思とは関係なく動き回り、気がついたらボクは普通に演奏していた。すぐその下に奏太がいたことも忘れて。
すると、いつの間にかピアノの下から這い出してきた奏太が、何かに取り憑かれたような顔をして真剣にそんなボクを横でじっと見ていた。
あの頃のボクみたいに…。
目の前で奏でる音を必死に目と耳に焼き付けようとするかのように…。
まだ話すこともおぼつかない奏太が、何度も何度もボクにせがむ。
「パパ、もいっかいピアノひいてー。」
あれから度々、奏太がボクの腕を引っ張り、ボクらはこの部屋を訪れた。
その度にボクは仕方なく奏太にピアノを弾いてきかせてやった。奏太はいつも嬉しそうな顔をして、隣でそれを黙ってじっと見ていた。
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