いつかのわたし。

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 それからしばらくして、高校の卒業式を終えての春休み。わたしは一人、おばあちゃんの家に遊びに来ていた。  進学先は少し遠くの大学だ。来週からは都会での一人暮らしも決まっている。  今までのように、お正月やお盆に都合をつけて母さんと来られるかわからなかったから、引っ越す前にちゃんと挨拶に来たかったのだ。 「かなちゃん、そのお洋服もよく似合うねぇ」 「そうかな? ありがとう。……おばあちゃん、ちょっと鏡借りるね」 「ああ……好きなだけ見ておいき」  大学の入学式に着る予定の真新しいスーツに身を包んで、慣れない薄化粧をしたわたしは、あの時格好いいと感じた『大人のお姉さん』になれているだろうか。  中学の制服姿を見た小学生のわたしは、可愛らしい制服をいつか着たいなと羨ましく感じた。  スーツ姿を見た中学生のわたしは、いつかこうなるのだと憧れと期待を抱いた。  あの頃思い描いた理想の姿に、今の自分はちゃんとなれているのかと、気合いを入れるように両手で頬を叩く。 「……ねえ。わたし、まだ全然大人じゃないんだよ」  相変わらずひんやりとした鏡の表面に触れて、思わず自信無さげに眉を下げると、つい弱音が溢れた。  今のわたしが、かつての自分に誇れるかと問われると、正直自信がない。  あの日見たお姉さんは確かに素敵な大人に見えたのに、今この場所に立っているのは、高校生と大学生の間の、まだまだ不安定で不確定な子供のわたし。  第一志望と違う大学に通うために地元を離れて遠くに行くことや、初めての一人暮らしへの心配。新しい環境に踏み出す不安に押し潰されそうなわたしは、決して憧れられるような存在じゃない。 「……」  つい泣いてしまいそうになると、涙の気配に呼応するように、ゆらりと鏡面が揺れる。  これからここに映るのは、きっと何年か後のわたしの姿だろう。前回の期待とは違って、この先のわたしを見るのが何だか怖い気がした。  目を覆いたくなるのを何とか堪えて、恐る恐る視線を向ける。すると、予想していたよりもずっと下に、小さな子供が映っていた。 「え……?」  今度こそ幽霊かと一瞬身構えるけれど、よくよく見るとそこに居たのは、リボンが解けてしまって長い髪を乱したままの、幼い頃のわたし。 「……えっ、なんで!?」  混乱しながらも、状況を整理する。この時のわたしが見たのは、中学生のわたしだ。今彼女と繋がっているという訳じゃない。  現に、尻餅をついた少女が見上げているのは、わたしの顔よりも下の方だ。目が合わない彼女はきっと、今まさに中学生のわたしを見ている。  けれど約十年ぶりに見るそのあどけない瞳は、ただひたすらに驚きと、それからたくさんの煌めきを帯びていた。 「ああ……そっか。そうだね……わたし、大人になれるのが、待ち遠しかった。不安なんて知らないで、楽しみで仕方なかったの」  再び鏡面が揺れて、今度はセーラー服のわたしが映る。今のわたしを見て、格好いいと、こんな風になれるのだと喜んでくれた、あの日のわたし。  その瞳も、揺れる水面に負けないくらいに、キラキラと輝いている。 「そんな目で見ないで……なんて、言えないよね。あの時の気持ちは、本物だもん……」  憧れを叶えられていない罪悪感と共に、わたしはこの時の前向きな気持ちを、上手く行かないことがあると同時に、未来への希望に満ちていた日々を思い出した。  背伸びをしたくてたまらなかった子供の頃。けれどいつからか、世界にあるのは夢や希望だけでないことを知った。理想とままならない現実の差を、抱えきれない程のいろんな気持ちを。あんなにも早く大人になりたいと願ったのに、いつしか嫌でも大人にならざるをえないのだと知ったのだ。 「わたし、まだ大人になりきれない……でも、いつまでも子供のままでもいられない……」  きっといつだって、鏡の向こうの今ではない『いつか』に憧れてしまうのだと、わたしは気付く。 「……ねえ、鏡さん。今までたくさん、いつかを見せてくれてありがとう。……でも鏡って本来、今の自分を映すものだよね」  もう一度揺れた鏡の中は、幼い憧れを消し去って、ぼんやりとした鈍色のもやで覆われる。  はっきりと映らない景色は、今のわたしのように、白でも黒でもない曖昧な色だ。 「わたし……無い物ねだりの憧れを追いかけ続けるんじゃなく、いつか『今』だけを映せるようになるように……今の自分でちゃんと胸を張れるようになるから」  そっと表面に触れると波は凪いでいき、やがて鏡は本来の輝きを取り戻す。 「待っててね。今を誇れる、いつかのわたし」  鏡に映ったわたしの顔は、慣れないお化粧をした真新しいスーツ姿。大人で子供の、ありのままのわたし。  泣いて笑ってぐちゃぐちゃのはずのその表情は、いつになく晴れやかだった。
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