それぞれのコイン5――楠琢哉

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それぞれのコイン5――楠琢哉

 崩落事故のあと、救急車で病院に運び込まれた。  検査の途中で母親と祖母が駆けつけた。母親は乱れた髪も省みず、恐ろしい形相でツカツカ歩み寄る。怒られる、と身構えた俺をギュッと抱きしめ、弱々しくつぶやいた。 「琢哉、よかった……」  気の強い彼女が、大人じゃないみたいだ。こんなにも心配させてしまった、と申し訳なくなる。 「……ごめん」  母親はしばらく俺を抱擁していた。やがて体を離し、疲れたような笑みを浮かべる。 「痛いところはない? 気分は?」 「アザできたけど、ぜんぜん平気。気分も大丈夫。ちょっと眠いかな」 「検査が終わったら、ゆっくり寝ればいいわ」 「うん」  祖母のほうは落ち着いた様子で、いつもと変わらない微笑みを向けてくれる。そんな二人を見て、俺も肩の力が抜けた。  検査が終わってから、食事を取って眠りについた。  目を覚ますと夕方になっていて、父親もやってきた。母親と祖母が必要な物を買いに出たあと、父親は渋い顔で注意する。 「母さんがえらい取り乱してたぞ。あまり心配かけるなよ」 「うん、気いつける」 「まぁ、無事でよかった」  沈黙が流れると居心地が悪い。相手は病室を見回してから、思い出したように言った。 「あと、事故のことはなるべく母さんに話すな」 「なんで?」 「お前が巻き込まれたと聞いて、倒れそうだった。だからそれ以降の情報は、あまり伝えてない」 「ふうん……」  こっちも説明できることはそんなに多くない、と思いつつ相槌を打った。父親は険しい表情で続ける。 「死者が出たなんて知ったら、それこそ母さんのほうが入院しかねない」  一瞬、聞き違いかと思った。あわてて父親に詰め寄る。 「死んだって誰が!?」 「えっ……主婦だよ。たしか高瀬っていう」  俺は絶句した。  ゆうのお母さんが死んだ。そんなこと、あっていいはずがない。父さんはひどい嘘をついている。 「……ほんまに?」 「ああ。病院に運び込まれたけど、そのときにはもう……」  そこまで答えて、父親は俺がショックを受けていることに気付いた。こちらの肩に手を置き、真剣な目を向ける。 「お前は助かった。元気に退院して、母さんとおばあちゃんを安心させてやらないと」  何と答えればいいのか分からず、俺は力なくうなずいた。  頭の中がグチャグチャで、今の状況に現実感がない。父親の励ましの言葉が、右から左へ流れていく。  母親と祖母が戻り、同じタイミングで夕食が運ばれてきた。食事を済ませて「眠りたい」と言うと、三人は帰っていった。  しばらくぼんやりしてから、ベッドを下りて病室を出た。  ナースステーションに行き、ゆうの部屋を尋ねる。ひとつ下の階にならぶ病室の番号を見ながら、廊下を歩いていく。  次の部屋だ、と足を速めようとしたとき、ドアを開けて男性と看護師が出てきた。  廊下の片隅で、ヒソヒソと会話する。  男性は、ゆうと目元がどことなく似ている。もしかすると父親かもしれない。そちらに近づくと、看護師の言葉が聞こえた。 「侑子ちゃんが起きても、お母さんのことはまだ知らせない方向で」 「はい。よろしくお願いします」  看護師が去ったあと、男性がすこしだけふらつき、壁に右肩を預けた。こぶしを握りしめて、うなだれる。  ゆうにとってはお母さん。つまり、この人にとっては奥さん。大事な存在が亡くなった。とても声をかけられない。  ゆうは眠っているらしい。起こすのはかわいそうだ。話ができても、彼女にうまく嘘をつく自信がなかった。  その場から静かに遠ざかる。階段を上って病室に戻り、ベッドにもぐりこんだ。寒くないのに体が震えて、目を閉じても眠れなかった。  翌日、父親はちょっと顔を出し、仕事があるからと関西へ帰ってしまった。母親はいつもと変わらぬ様子だが、おそらくひと悶着あっただろう。  でも俺は気持ちがふさいで、両親のことを考える余裕がなかった。  ゆうは目を覚ましただろうか。母親が亡くなったことを今も知らないのか。  いつまでもごまかせるものではない。事実を知ったとき、彼女はどうなるのだろう。  俺は何ができる? ひとつとして思いつかなかった。  さらに次の日、検査が終わったので退院することになった。  予定としては、祖母の家に戻り、荷物をまとめて関西に帰る。この町にいられるのはあとわずか。  朝食を手早く済ませ、家族が来る前に病室を出て、ひとつ下の階に向かった。  彼女が元気になるまで滞在したいけれど、それが無理なら一目でも会いたい。  廊下を歩いていくと、目的の部屋から揉める気配がした。ガタガタッと物音が立ち、男性のなだめる言葉が上がる。その直後、女の子の叫び声が響いた。 「お母さんっ、お母さぁん……!」  ゆうが泣きわめいている。母親のことを知ってしまったのだ。  呆然と立ちつくしていると、病室のドアが開いて、見知らぬ男性と少年が出てきた。部屋の中は騒然としている。  男性は膝を曲げて、少年を心配そうに見つめる。その子は泣いているらしく、うつむいて目をこすった。 「俺が、俺がごまかせなかったから……」  彼の肩に、男性がそっと手を置く。 「たまたま、さっき、侑子ちゃんが知ってしまっただけだ。お前のせいじゃない。大丈夫、叔父さんとお母さんに任せよう」 「でも侑子が……」 「きっと落ち着く。信じよう」  男の子は納得できない顔だったが、感情をこらえるように唇を噛みしめた。  とても近づける雰囲気ではない。しかし、機会は今しかない。俺は二人のそばに歩み寄り、ためらいつつ声をかけた。 「あの、すいません」  彼らの視線がこちらに向く。俺は怯んだが、勇気を出して「ゆうに会わせてください」と懇願した。  男性が驚いて質問してくる。 「きみ、侑子ちゃんの友だち?」 「はい。お願いします」  男性は困惑して、チラッと病室を見やる。彼女が泣き続けている。少年が真っ赤な目で睨んできた。 「今どういう状況か分かるだろ、帰れよ!」  男性がたしなめる。 「怒鳴るんじゃない。この子は悪くないだろ」 「だって、むかつく」 「それは八つ当たりだぞ」  すると、少年は悔しそうに顔を背けた。男性が申し訳ない顔でこちらを見る。 「ちょっと取り込んでるんだ。侑子ちゃんが落ち着いたら、会ってあげてほしい。また今度でいいかな」  その言葉はあくまで提案だが、病室の様子を窺うに、答えはひとつしかなかった。  落ち着いたら。また今度。  それはいつのことだろう。俺には今日しかない。  けれど、自分が彼女の立場だったら。  親を亡くした直後にゆうが訪ねてきて、「もう帰るから、元気でね」と告げられたら、あんまりだと絶望する。  さよならをしないことが、はたして正解なのか。明日やあさってなら、状況は変わったかもしれない。でも今日の自分は、ひたすら無力だった。  俺は視線を落として、絞り出すように答える。 「じゃあ……また今度」  自分の言葉に気が遠くなった。  病院をあとにして、家に戻った。  まとめた荷物を持ち、祖母に見送られながらタクシーに乗る。  一分一秒が過ぎるたび、心が引き裂かれる。大切なものを落としてきた。悔しくて、淋しい。  駅に向かう途中で、浴衣姿の人や屋台をちらほら見た。母親が運転手に尋ねる。 「今日は何の日だったかしら」 「花火大会ですよ。本当は四日前だったんですけどねぇ」  俺は、ゆうの言葉を思い出した。 『いっしょにおまつり、っておもったもん』  あんなに行きたがっていたのだから、帰る日を延ばして、願いを叶えてやればよかった。 『こんどこっちきたら、はなびたいかいにいこうな』  いつ実現するかも分からないのに、俺は約束した。そうと知りながら、彼女は嬉しそうに笑った。  ごめん、ゆう。ごめんな……。  視界が歪む。こぼれそうな涙を必死にこらえた。 * * *  自分に妹がいると知ったとき、家族は元に戻らないと悟った。  大人たちに対しては複雑な気持ちだけれど、妹のことはかわいいと思う。生まれてきてくれてよかった。生い立ちに悩むかもしれないが、乗り越えて幸せになってほしい。  妹と接したあとは、ゆうを思い出す。そして祈った。  元気でありますように。笑っていますように。  いつか会えますように。  そのとき、彼女の笑顔を見られますように。
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