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助け
「ああ、その参考書? それが売り切れちゃってねぇ」
本屋の店員である中年女性が、申し訳ない顔で言う。侑子は内心ガッカリした。
「そうですか……」
「入荷するかハッキリしないのよ。取り寄せだったら確実だけど、届くまで日数がかかるの」
「じゃあいいです。ありがとうございます」
侑子は店をあとにした。
バス通りのほうに大きな書店がある。十五分弱の距離だ。散歩気分で行ってみよう、と足を向ける。
休日の昼すぎ、試験勉強をひと休みして外に出た。
日差しはきつい。風が強いので、むっとした空気は留まらない。木々の枝が元気に揺れる。
子供が遊ぶみたいに、日陰を辿っていく。おかげで、すこし涼しく歩くことができた。
書店で目的のものをあっさり見つけた。ついでに雑誌や小説を眺める。買いたい本がなかったので、参考書だけ購入した。
帰り道では、日向と日陰の境目がぼやけていた。
黒雲が空を覆う。天気が崩れるのかもしれない。侑子は家路を急いだ。
途中でぽつぽつと滴が落ちてきた。あっという間に雨脚が強まる。
侑子はあわてて米販店の軒先に避難した。雨はさらにきつくなり、「滝のような」という形容詞がぴったりの状況になった。
本はビニール袋に包まれているから、濡れることはない。自分がびしょ濡れになっても着替えれば済む。けれど、ここまで激しい雨だと突入する気にはなれなかった。
この降り方なら、雨宿りしていれば止むだろう。
風向きが変わって軒下に降り込んでくる。侑子は後ろに下がり、シャッターに触れるか触れないかの位置に立った。サンダルの足が濡れる。
時刻は二時すぎだが、暗くて夕方みたいだ。車もほとんど通らない。
ザーザーと叩きつける音を聞いていると心細くなる。早く止んで、と彼女はジリジリした。
そのとき、ビニール傘を差した二十代半ばの男性が、目の前を通った。
互いの視線が合う。なんとなく元気のない目だ。去っていくのかと思ったら、距離のあるところで軒先に入って傘を閉じた。その服はぐっしょり濡れている。
侑子は暗い空を仰いだ。雨音は賑やかだが、なんだか居心地が悪い。
「……きみ、いくつ。高校生?」
不意に低い声が聞こえた。誰が言ったのか、誰に言ったのか、侑子はとっさに判断できない。
横に目をやると、相手がじっとこちらを見ていた。彼女はあわてて思考を働かせる。
「じゅ、十七です」
「ふうん」
彼は遠慮のない視線をぶつけてくる。
「いくら?」
「えっ」
質問の意味が分からず、侑子は相手の表情を窺う。男性は彼女の全身をねっとり値踏みし、暗い眼差しで見据えた。
「きみ、いくら?」
侑子は言葉を失った。
背筋を寒気が走る。違う意味ではないか、と考えても、頭の中はグチャグチャだ。
執拗な視線を感じる。肌という肌を隠してしまいたい。一対一でいることに耐えられなかった。
金縛りにあったように動けない。ぐしょ濡れのスニーカーが、じゅぷ、とこちらへ踏み出す。
「ねえ、聞いてる?」
参考書をギュッと抱きしめる。いやだ、来ないで。
男が近づいてくる。声が出ない。両腕が震える。侑子はパニックに陥った。
「ゆう!」
強い声で呼ばれ、人影がパッと視界を遮った。
侑子は驚いて、反射的に目を閉じる。だが何も起こらないので、おそるおそるまぶたを上げた。
目の前に広い背中がある。その人物を仰げば、濡れた栗色の髪が筋状の模様を描き出していた。
男性二人が対峙する。しかしお互い、何らかの行動には出なかった。
侑子の前にいる人物が、Tシャツの上に羽織ったYシャツを脱ぎ、彼女の頭にふわっと掛けた。それから侑子の手を取る。
「行こ」
彼女を軒先から引っ張り出し、激しい雨の中を駆けはじめる。
侑子はYシャツを押さえ、相手の背中を見ながら走った。水溜りを踏んでも気にならない。こちらの手をぐいぐい引く彼に、ただついていく。
充分な距離を走ったあと、二人は道端の電話ボックスに避難した。
斜めに降る雨がガラスに当たって、次々と流れ落ちていく。
侑子の頭を覆うシャツが、スッと取り払われた。
真正面に琢哉がいて、ごく近い距離で向かい合う。彼が心配そうな眼差しを注いだ。
危険な人物から逃げられたこと、琢哉に助けられたこと、こうしてそばにいること。いろんな感情が噴き出して、侑子はこらえきれず涙をこぼした。
頬を伝った滴が、あごからポタポタ落ちていく。彼の大きな手は、こちらの指をキュッと握る。あたたかくて頼りがいがある、この人は味方だ。
軒下の出来事を思い出すと体が震えた。相手に視線を向けられることすらイヤだった。
同じ異性なのに、どうしてこんなに安心できるんだろう。
頬を拭って彼を見上げた。琢哉の瞳が気遣う。
侑子の視界がまたぼやける。頬が濡れるほど、この瞬間が現実だと実感できる。
泣きやまないと。でも、泣いていたい。
彼とのあいだに距離があったとき、胸にぽっかり穴が開いていた。こうして満たされた気持ちになって、初めて気付く。
侑子には家族も友だちもいる。しかし、彼女の中で琢哉が担う役割は、それらと別物らしい。
キィ、ときしむ音がして、彼が電話ボックスのドアを開いた。
侑子は思わず、繋いだ手を引き止める。行ってしまわないで、と。けれど琢哉はドアを足で固定しただけだった。視線を戻して、静かな声をかける。
「空気を入れ換えよう思って」
言われてみれば、わずかに息苦しいかもしれない。冷気がボックス内を循環し、過ごしやすい空間に変えた。
侑子は縋ったことをごまかそうと、本を持ち直す。
互いの片手はしっかり繋がったままだ。今なら、話ができる。
「……ごめんなさい」
「謝ることない」
彼女は首を左右に振った。
「……思い出せないの」
見上げると、琢哉は真顔で彼女を眺めた。ゆっくり視線を落とし、「ああ」とつぶやく。
分かっている、という口調だ。侑子の頭の中でいろんな感情が渦巻いたが、言葉にまとまらない。
「ごめんなさい」
琢哉はガラス越しに外を眺める。
「言うたやろ。元気してんのか、知りたかった」
「……うん」
「ちゃんと確認できた」
そして、彼は申し訳なさそうな苦笑を向けた。
「ほんまは、こっち来るのいややってん。前の街を離れたなかった」
「そう、だよね」
「けど、住んでみたらそうでもない」
琢哉はまた景色に目をやった。いつの間にか雨脚が緩んでいる。
「やっていけると思う」
彼の視線は未来を見つめている。自分だけが過去にこだわる。話せることはないのかもしれない。
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