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物別れ
空が明るさを取り戻しはじめている。雨が止む。このまま別れたら、他人になってしまう。侑子は焦って、彼の手をギュッと握った。
「私、楠くんと……距離を置いた」
「おんなじ立場やったら、きっと俺もそうした」
擁護されるとは思わず、彼女は逆に言葉を失った。
責められずに済んだけれど、互いのあいだに溝が横たわっているように感じた。心細くて、それを埋めたいと願う。
「私にガッカリしたんでしょ? だから……」
「俺が?」
琢哉は心外な、という顔をしたが、何かに思い当たった様子で「ああ」とつぶやいた。
「ちょっとな」
「ごめんなさい……」
そのとき初めて、彼が傷ついた表情になった。
目を細めて唇を噛み、感情をこらえるように視線を逸らす。手はほどかなかったが、触れる指から彼の複雑な心境が伝わってくる。
琢哉はふっと、かすかなため息をついた。
「そういう顔ばっかさせてる」
「……え?」
「不自然や、こうしてんの。いつも互いに気ぃ遣うて」
侑子はうつむいて泣きたくなった。
そうかもしれない。ずっとちぐはぐで。でも、それだけじゃないと信じていたのに。
大きな手がスッと離れた。彼が力なく言葉をこぼす。
「……再会せんほうが良かったな」
電話ボックスから出ていってしまう。
侑子はあわてて相手につづいた。細い糸が今まさに切れようとしているのを感じ、受け入れられなくて追いすがる。相手の腕を取って立ち止まらせた。
「十年前のことを教えて。どんな遊びをしたとか、どんな会話を交わしたとか。そうしたら、きっと――」
琢哉が振り返り、つらそうな表情で彼女を見据えた。
「俺の昔話を、高瀬さんに言うてもしゃあない」
糸がプツリと断たれた。
侑子は、引き止める手をかくんと下ろした。その拍子に、持っていたビニール袋が足元に落ちる。バシャッと音を立てて、顔を出した参考書が水たまりに浸かった。
琢哉が素早く背中を向ける。
「元気でな」
絞り出すような声をかけ、その場から駆け出した。
侑子は彼の背中を視線で追う。相手が道の先に消えると、一瞬にして視界がぼやけた。
終わってしまった。彼のサヨナラで、持っているものすべてを失ったみたいだ。
地面に立っていることも呼吸することも、実感がない。そうだったらいい。夢だったらいい。
けれど目覚めは訪れない。
琢哉の言葉が、侑子の中で渦巻いて心を裂く。これが、自分の招いた結果。大量の修正液をぶちまけたい。だが、もう遅い。
おねがいです、かみさま。じかんをもどしてください。
さよならなんてできません。いっしょにいたいのです。
さびしくてさびしくて、いきてゆけません。
わたしにはあのひとがひつようなのです。
「侑子!」
名前を呼ばれてハッとしたが、瞬時に違うと思った。この呼びかたは『彼』ではない。
駆けつけたのは佳孝だった。地面に膝をついた侑子に手を差し伸べて、立たせる。
彼女の足は泥で汚れていた。頬には涙の跡があり、落ちた参考書はもう使い物にならない。
佳孝は表情を険しくしたが、できるかぎり穏やかな口調で尋ねた。
「何があった」
「……よしくん、どうしてここに」
「叔父さんが心配してたんだ。『侑子の帰りが遅い。傘を持ってないはずだ』って」
「そう……」
彼女の身を案じてくれる人がいる。なのに、心の穴はふさがらない。呆然としたままの侑子に、佳孝は促した。
「何があったか、俺には言えるだろ?」
侑子は改めていとこを見た。
電話ボックスやそのあとのやり取りが、胸に突き刺さる。去ってしまった存在の大きさに、押しつぶされそうになる。また涙がこぼれて、彼女は幼い子供のように訴えた。
「行っちゃった。もう戻らない。……いやだよぉ」
侑子は悲痛な声を絞り出し、いとこにすがりつく。佳孝は戸惑いながら彼女を抱きしめた。そして、いたわるように頭を撫でる。
「お前は一人じゃない。分かるだろ、そばに俺がいる」
「苦しい、死んじゃいそう……」
「そんなこと言うな。お前は俺を置いていって平気か?」
彼の腕の中で、侑子は首を左右に振った。
「でもよしくんには伯父さんと伯母さんがいる。友だちだって」
「その誰も、侑子をやってくれない」
父親も佳孝も、伯父も伯母も、真琴も静香も。誰も琢哉をやってくれない。侑子はいっそう泣いた。
「どうして行っちゃうの……? 離れたくないのに」
「ちゃんとそばにいる。哀しまなくていいんだ」
一言一言に思いを込めて、佳孝は言い聞かせる。かき乱された侑子の思考にスッと沁み込んで、じんわり温もりを広げた。
「……ほんとに?」
「ああ」
「よしくんはここにいてくれる?」
「お前を一人にしない」
侑子がいとこを見上げると、佳孝はしっかりした笑みを浮かべる。だが急に、不安そうな表情になった。
「けど侑子はほかを見て、ついて行っちまいそうだ」
その言葉が彼女の胸を締めつけた。
失ったことに目を奪われ、そばにいる人を傷つける。いちばん大事なのは、近くで見守ってくれる存在なのに。
あるものを当たり前と思わず、感謝の気持ちを忘れないで、せいいっぱい大切にする。それでも悔やむ。ああすればよかった、こうすればよかった。
うまくできなかったせいで、ひとつの決別を招いた。まだショックのさなかだ。
けれど、今ある繋がりをないがしろにする理由にはならない。いとこがいるから、弱音を吐いて落ち込めるのだ。
侑子は佳孝に寄り添った。
「どこにも行かないよ」
「ありがとう。もう泣くな」
「――うん」
そのまま、二人はしばらく抱き合った。
侑子が落ち着いたところで、佳孝は足元にある参考書とビニール袋を拾った。
「新しいのを買ったほうがいいな」
「うっかり手を滑らせちゃったの」
「はは、ドジだな」
侑子は、嘘を見透かされている気がした。
あたりに捨てる場所がないので、佳孝は参考書を袋にしまって右手に持った。それから左手を彼女に差し出す。
侑子は素直にいとこと手を繋いだ。
成長するにつれて触れ合うことはめったになくなったが、彼女が元気をなくしたとき、佳孝は頭を撫でたり手を握ったりしてくれる。その気遣いに励まされた。
ずぶ濡れの参考書と、繋いだ手。告げられた別れを思い出して、侑子の目にじわっと涙が浮かぶ。
帰り道を先導するいとこは、とりとめのない話のあいだに軽い冗談を飛ばす。彼女はサッと目尻を拭って、笑い声を返した。
高瀬家に帰宅すると、両家の親が心配して集まっていた。佳孝は、侑子が水溜りで転んだと説明した。
彼女がシャワーを浴びるあいだ、伯母が服を洗濯してくれた。夕食は遠山家で五人揃って取った。大人数でのにぎやかな食事は楽しい。
夜の八時ごろ、侑子と父親は隣家を辞去した。父親が風呂へ向かう。侑子は二階の部屋に上がった。
机上のビニール袋が目に入る。参考書はまだ湿っていた。ふにゃふにゃになったページをめくる。
『再会せんほうが良かったな』
侑子はその場にうずくまって、両手で顔を覆った。
『元気でな』
どんなに認めたくなくても、あの言葉は現実だ。
侑子は声を殺してぼろぼろ涙を流した。そうする時間が必要だった。
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