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再会
三組に転校生がやってきたことは、翌日には一組まで広まった。
名前は楠琢哉。関西に住んでいたらしい。
前の高校では野球部に所属したが、こちらで部活動をするつもりはないようだ。転入学試験で数学が飛びぬけて良かったとか。髪の色は地毛だそうだ。
ほかの噂は、話す人間が勝手に想像したもの。当人はいたって物静かで、自己アピールをしない。わずかな情報を拾い、みんな面白がって話のタネにした。
二組と三組は、芸術で一緒になる。転校生は美術だと、同じ選択の静香が言った。侑子と真琴は音楽を選んでいる。
三組の廊下は、しばらく見物人でにぎわった。ほとんどの生徒は物珍しげに見るだけで、当人と関わることはない。野球部の勧誘のときだけ、転校生は廊下で言葉を交わした。
ある日、体育館で全校集会があった。二組女子の隣に三組男子が並ぶ。
転校生は前から四番目だ。栗色の髪は目を引く。前の男子が振り返ってなにか説明する。それに対してうなずいた以外は身じろぎせず、彼はステージを眺めていた。
今はどんな表情だろう。背中を見ながら侑子は思った。
* * *
「うそっ、ないないー!」
真琴があわてて、机から教科書やノートを取り出した。次いでバインダーを開き、教科書をパラパラめくる。被服の荷物を抱えた侑子と静香が、順に声をかける。
「どうしたの」
「なにしてるの~」
「提出するプリントが行方不明になった。やだ、出てきてよー」
カバンを探るが見つからない。
侑子は散乱したノートを持ち上げたり、机の中を覗いたりした。手伝う気のない静香が呆れた顔をする。
「どこやっちゃったのよぅ。一緒に置いとけば、なくなるはずないじゃない」
「持って帰ってないから、あるはずなの」
「見つからないんでしょ~」
「やばい、怒られるー」
真琴は必死の形相だが、時間ばかりが過ぎ、三人のあいだに諦めムードが漂う。ふと静香が尋ねた。
「ロッカーは?」
「ええっ、そんなとこ入れてないよ」
反論しながらも、真琴は教室の後方へ向かう。自分のロッカーを開いて中をごそごそひっくり返した。
その動きがぴたりと止まる。持ち上げた彼女の手が、プリントをつかんでいた。
「あったぁあ~」
「ほらぁ、ゴチャゴチャにしたんでしょ」
「ピンチ脱出!」
三人はホッとして笑った。ロッカーを閉めた真琴が席に戻る。侑子は机の上をさっと片付け、友人を促した。
「急ご。休み時間が終わっちゃう」
「うわ、ほんとだ」
真琴が急いで被服の荷物をまとめる。そして、三人は誰もいない教室をあとにした。
バタバタと廊下を行く途中、化学教師に「走るなよー」とたしなめられ、「すみませーん」と小走りに急いだ。階段を下りながら、静香が真琴をからかう。
「もう忘れ物ないよねぇ」
「プリントさえあれば何とかなる!」
「大雑把なんだからぁ」
三人のくすくす笑いは、踊り場を過ぎたところでピタッと止まった。
ちょうど職員室から出てきた転校生が、チラッとこちらを見る。教室に戻るところらしく、階段の途中ですれ違った。
あわてて大人しくなった自分たちがおかしく、三人はこっそり目配せした。真琴がペロッと舌を出す。
「こっちの女子は騒がしい、って思われたかな」
「どうせすぐバレるけどねぇ」
ひそひそ話す真琴と静香に、侑子は苦笑した。
「二人とも、聞こえちゃうよ」
二階に下りてから、振り向いて様子を窺う。すると、相手が踊り場からこちらを見下ろしていた。
彼が驚いた表情で口を開く。そして、ためらいがちに問いかけてきた。
「……高瀬、侑子?」
思わず侑子は足を止めた。ほとんど知らない相手から、フルネームを呼ばれるなんて。びっくりして立ちすくんでいると、彼は見定める目を和らげた。
「ああ、ゆうや」
転校生はうなずき、階段を駆け下りてきた。いきなり侑子の両肩をつかんで、彼女の全身を視線でたどる。
彼は安堵の息をつき、喜びに満ちた笑顔を広げた。
「良かった。元気しとったんやな」
その手には、痛いぐらいの力が入っていた。
侑子は、相手の様子に圧倒される。窓から陽光が差し込んで、栗色の輪郭が際立つ。つい、そのきれいな筋に見とれた。
「ゆうちゃん、お知り合いだったのぉ?」
のんびりした静香の声に、侑子は我に返った。
友人たちが事情を呑み込めない顔を向けている。侑子も教えてほしいぐらいだ。
目の前の存在を、改めて見上げる。転校生の顔にも声にも覚えがない。どうして彼は、懐かしむ表情で自分を見るのだろう。
静香の質問を、否定も肯定もできない。侑子はどうすればいいか分からず、うつむいた。
転校生は彼女の顔が強張っていることに気付き、「ごめん」と手を引いた。侑子が視線を上げると、じっと見つめる。
「覚えてないかな。加賀琢哉やけど」
「……ごめんなさい」
侑子が謝ると、転校生はショックを受けた表情になった。
校舎内にチャイムが鳴り響く。職員室から教師がどっと出てくる。そのうちの一人が、階段にいる生徒を見咎めた。
「授業が始まるぞ。教室に戻れ」
真琴があわてた。
「そうだよ。急がないと遅刻になっちゃう」
「行こう、ゆうちゃん」
「……うん」
侑子は転校生を窺う。彼は物言いたげな目を向けていた。そちらに小さく頭を下げ、階段を下りる友人を追った。
一階に着き、右へ伸びる廊下をまっすぐ行く。突き当たりの被服室に駆け込むと、教師はまだいなかった。
「間に合ったー」
真琴がやれやれと息をつく。浮かない顔の侑子の肩に、静香は手を置いた。
「あの人、きっと勘違いしてるんだよ」
「……かな」
準備室のドアが開いて、教師が姿を現す。三人はそれぞれの席に散った。プリントが集められるため、侑子はノートに挟んだそれを取り出した。
授業が始まったものの、ふと階段でのやり取りがよみがえる。
最後に向けられた、転校生の淋しげな眼差し。苦しいぐらい胸が締めつけられた。
被服の授業が終わり、三人は実習室を出た。
彼女らのあいだに奇妙な沈黙が漂う。侑子は迷いつつ、言った。
「考えてみたんだけど……私、あの人のこと知らないと思う」
真琴が同調する。
「誰かと間違ってるんだよ、きっと」
「『ゆう』なんて呼ばれたことないし。関西弁を喋る人は、そう簡単に忘れないはず」
静香も肯定した。
「だよねぇ。向こうの思い出の相手と、ゆうちゃんが似てるんじゃない?」
想像の域を出ないが、侑子はそれらを信じようとした。
三組の前を通るときは足早に通り過ぎた。教室に戻ってから、真琴がモヤモヤした空気を吹き飛ばすように笑った。
「人違いする前に、ちゃんと確認しろっての」
「いいじゃない。済んだことだしぃ」
二人の軽い口調に侑子は表情を和らげた。
「ひとつ気になることがあるけどぉ」
静香があごに人差し指を当てる。真琴は怪訝な表情をした。
「なに?」
「もしかしたら、ご両親が離婚したのかな」
三人は顔を合わせたが、誰も答えられなかった。
* * *
授業が終了して放課後になった。真琴も静香も部活があるので、教室から去っていく。
帰り支度を整えた侑子は、静かに廊下へ出た。隣のクラスの前を通るとき、室内を窺うと転校生の姿はなかった。
階段を下りて、下足室に入る。あたりは生徒の声でざわめく。侑子は上履きからローファーに履き替えた。
生徒玄関を出て自転車置き場に向かいかけたところで、思わず足を止める。帰宅する生徒を見渡せる位置に、転校生が立っていた。
互いの目が合う。彼はまっすぐやってきて、侑子に伺いを立てた。
「ちょっとええ?」
侑子は逃げ出したくてたまらない。けれど拒む勇気もなかった。
自転車を挟んで、校門までの道を二人で歩く。生徒の視線をいくつか感じたけれど、それを気にする余裕はなかった。
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