曖昧

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曖昧

 ごはんと味噌汁、焼き魚と玉子焼きとお漬物。  侑子が二人前をテーブルに並べると、出勤の支度を整えた父親が和室から出てきた。カバンと上着を隣の椅子に置き、嬉しそうな顔をする。 「おっ、今日は和食か。美味そうだな」 「最近パンが多かったから」 「侑子も日本人だな。父さんはどっちでもいいぞ」 「お父さん、食のポリシーないもんね」 「ひどい言われようだなぁ」  侑子はいたずらっぽく笑ったあと、テーブルの端に置いている仏器と茶湯器を手にした。 「お母さんにお供えしてくる」 「頼むよ」  和室の仏壇まで行き、ふたつを定位置に供える。りん棒でりんを鳴らして両手を合わせた。  ダイニングキッチンに戻って朝食を取る。父親が「今日は遅くなる」と告げ、侑子はうなずいた。  揃って八時前に家を出る。父親はバス通勤だ。侑子は駐車スペースから自転車を出した。  隣家のベランダに、ふっくらした中年女性が姿を現す。それに気付いて侑子が挨拶した。 「伯母さん、おはよう」 「あら、二人ともおはよう。ちゃんと朝ごはん食べた?」 「うん、今日は和食。もらったお漬物、美味しかったよ」 「次のぶんも張り切って漬けるわ」 「楽しみにしてるね」  伯母と姪が笑い合う。後ろにいる父親がベランダを見上げた。 「姉さん、遅くなるから侑子を頼む」 「そうなの。侑子ちゃん、今日はうちの子ね。ずっとこっちで暮らしたらいいのに」  侑子は苦笑いし、父親がため息をついた。 「しょっちゅう行き来してるだろ。隣で単身赴任させないでくれよ」 「お父さんてばわがままね。侑子ちゃん、つらかったらいつでもうちに来るのよ」 「あはは、そのときはお願いします」  侑子が応じると、父親はやれやれと首を左右に振った。  伯母家族は隣で暮らしている。ひとつの敷地にふたつの家がくっついた形だ。同居ではないが、ごく近い隣人。  父親が出張のとき、侑子は一人になる。けれど隣家に入り浸ったり泊まったりするので、孤独ではなかった。  侑子は紺の自転車がないことに気付き、伯母に尋ねた。 「よしくん、朝練?」 「そうよー、眠そうな顔で出かけたわ。ほんと、バレーには熱心よね」 「大会が終わったら引退だもんね。頑張ってるんだ」 「ま、夢中になるものがあるのはいいことね」  父親が侑子を呼ぶ。彼女は腕時計を見てから、ベランダへ手を振った。 「じゃあ、行ってきます」 「行ってらっしゃい。気をつけてね」 「はーい」  侑子は父親と敷地を出た。こじんまりとした住宅街を抜けたところで、二人はべつの道へ向かう。 「侑子、気をつけてな」 「お父さんも。ばいばい」  父親に見送られ、侑子は緩やかな坂道を自転車で下っていった。  学校に着くと、予鈴が鳴る十五分前だった。生徒はみな、のんびり歩いている。侑子は自転車置き場をあとにして、生徒玄関を通り、二年二組の靴箱へ向かう。  目的の列に入るところで、隣から出てくる琢哉とばったり会った。侑子は驚いて立ち止まる。彼は落ち着いた笑みを浮かべた。 「おはよ」 「お、おはよう」  侑子はそう返すのが精一杯だった。琢哉が通り過ぎて校舎内へ歩いていく。その背中を見送ってから、彼女は小さな息をついた。 「まずいとこ見ちゃったかなぁ」  いきなり背後で声がし、侑子の肩に手が置かれる。彼女がギョッとして振り向くと、そこに静香がいた。友人は、えへへと屈託なく笑う。 「ごめんねぇ、ゆうちゃん」  侑子は相手に笑い返したが、うまくできたか、はなはだ疑問だった。 「ええっ、やっぱり知り合いだった?」  真琴が驚きの声を上げる。  昼休みの教室で、三人はひとつの机を囲んで食事をしていた。侑子は縮こまってうなずく。真琴は瞬きしてから尋ねた。 「転校生のこと思い出したの?」 「それが……ぜんぜん」 「じゃあ、昨日と状況は変わってないんじゃ?」 「引っ越す前のうちの家を知ってた」 「ありゃ。となると人違い説は厳しいな」  眉をひそめる友人に、侑子は弁当へ視線を落として答えた。 「楠くんは正しいと思うの。私が忘れてるだけで」 「七歳って微妙。覚えてることも忘れてることもあるし」 「その頃の出来事を聞いたら思い出すかな、って考えたんだけど……ダメみたい」  侑子はしょげ返る。その背中を、真琴がポンポンと叩いた。 「べつに転校生は怒ってないんでしょ?」 「うん。よけいに申し訳なくって」 「過去は置いといて、改めて友だちになるとか」  静香が、うんうんとうなずく。 「十年でいろいろ変わってるけど、同じところもあるよねぇ。また仲良くなれる可能性は高いんじゃないかなぁ」 「そ、そうかな」 「あの人、ゆうちゃんに気を許してるしぃ」 「えっ? 普通だよ」 「いえいえ~」  静香は面白がって、真琴に水を向ける。 「まこちゃんに質問。あの人がクラスで、リラックスして笑ってるのを見たことありますかぁ?」 「うーん。ありません、先生」 「じゃあ、ゆうちゃんといるときは?」  真琴は階段での再会を思い出し、侑子に向かってにんまりした。 「すごーく嬉しそうでした」 「ゆうちゃんに質問。昨日の帰り道はどうでしたかぁ?」 「…………」 「笑ってました~?」  侑子はしばらく沈黙して、そのあと観念した。 「……ました」  その答えに友人二人が盛り上がる。 「これは友情を越えちゃいますか!」 「分からないけど、否定もできませんよぅ」 「二人とも、勝手なこと言わないで。楠くん、今は人見知りしてるんだよ。私は昔の知り合いっていうだけ」 「えー、つまんない」 「真琴!」 「先生、侑子が怖いですー」  怯えるフリをする真琴を、静香がよしよしとなだめた。 「焦ってはだめですよぅ。じっくり固めていかなきゃ~」 「ですねー。勉強になります」  侑子は大きなため息をついた。 「二人の思惑どおりにはいかないもん」  ふん、とそっぽを向くと、真琴が侑子にすがった。 「冗談冗談。ちょっと遊んでみたかったの」 「知らない」 「えーん、許してってば」  静香がくすくす笑う。 「ゆうちゃん、あの人がからかわれるのが嫌なんだよね?」 「え……どうかな」 「友だちになったらいいよ」 「ん……」  侑子は曖昧な返事をした。静香がつづけて言う。 「悪い人じゃないみたいだし。笑顔になることが増えれば、新しい町にも馴染みやすいよ」 「……そうだね」  手助けできるなら、するべきだ。自分だって、転校してそこに知り合いがいたら心強い。  真琴が、期待する表情を侑子に向けた。 「仲良くなったら紹介してねー」 「……なったらね」  イエスともノーとも答えられず、侑子は困り顔をした。
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