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ためらい
チャイムが鳴って昼休みに入る。侑子がいつものように真琴の席に向かうと、友人二人は弁当を持参していた。
「今日はお弁当じゃないから購買に行ってくるね」
「ついてくぅ?」
「大丈夫。すぐ帰ってくる」
「行ってらっしゃーい」
侑子は教室をあとにした。
三組の前にさしかかったところで、そちらの担任が出てくる。つづいて琢哉が「先生」と姿を現した。侑子は思わず足を止める。
「どうした、楠」
「学校指定の水着ってどこで揃えられますか」
「ああ、ホテル元橋を東に行ったら北小学校があってな。隣の制服店で頼めばいい。注文しておこうか」
「水泳の授業がすぐなんで、店に行ってみます」
「前の学校の水着は?」
「プールがありませんでした」
「そうか」
教師が苦笑した。
「今の説明で分かるか? 地図が必要だな」
そのとき、廊下の先から「先生ー!」と女子生徒が走ってきた。
「こら、廊下を走るな」
「それどころじゃないです。横井高校から連絡があって、練習試合を早めてもらえませんか、だって」
「はぁ? 日にちがないぞ」
「私に言ってもしょーがないです。とにかく早く」
その女子が教師の腕を引っ張る。彼は連行されかけ、かろうじて琢哉を振り返った。
「楠、地図は――」
「詳しいことは委員長に聞きます」
「分からなかったら職員室に来てくれ」
「はい」
教師と女子生徒が早足で去っていく。
二人を見送ったあと、琢哉は教室を向いた。侑子は自分に気付かれるかと緊張したが、彼はそのままクラスに戻った。
呼び止めて、「その場所だったら分かるよ」と言わなければ。
ドアに近づいたけれど、室内を見ることができない。おせっかいでも、彼は受け入れてくれるだろう。きっと、「ありがとうな」と笑顔になる。
だが、あと一歩を踏み出すことができない。
居心地の悪さを感じたくないばかりに。記憶は途切れたままだ。その事実は、相手にとって淋しいはずだ。
小さな勇気が一気にしぼむ。侑子はドアを離れて、そそくさと階段へ向かった。
* * *
テレビの中で、お笑い芸人が子供に蹴られ、大げさな身振りでコケた。周囲がどっと沸く。
侑子はミニクッションを抱えてソファーにもたれ、画面をぼんやり眺めた。
「うわ、ひでえ」
不意に後ろで声がした。
振り返ると、いとこの佳孝がテレビを見て苦笑いする。次いで隣に座り、DVDのケースをローテーブルに置いた。
「ここまでやられると同情するな」
「えっ……うん」
「元気ないな。何かあったか?」
「そんなことないよ、普通」
侑子はごまかして、ケースのパッケージに視線を落とした。
「また映画レンタル?」
「侑子も見るか? フランスのコメディ」
「よしくん、フランス映画が好きだねぇ」
「あの独特の間がいいんじゃん」
「よく分かんない。オススメ?」
「超オススメ。予告編を見るか」
佳孝がケースを左右に開く。ディスクを持ち上げたところで、キッチンから声がかかった。
「ごはんできたわよ。二人ともいらっしゃい」
佳孝は耳を貸さず、レコーダーにディスクをセットした。侑子はダイニングテーブルに向かいかけ、いとこの行動に苦笑する。
伯母が息子にしかめっ面をした。
「よーしーたーか」
「予告編だけだって」
「そう言いながら本編に突入して、冷えた料理を食べるはめになるでしょ」
「温め直してくれればいいじゃん」
「十八にもなって、甘えたこと言ってんじゃないの」
伯母は冷ややかに突き放し、侑子の肩をポンと叩いた。
「二人で食べましょ。付き合ってられないわ」
「伯父さんは?」
「飲み会だって。女同士で水入らずね」
「ええー、俺はのけもの?」
佳孝はDVDを再生せずに、しぶしぶダイニングへやってきた。伯母がそっけなく言葉を投げる。
「まだごはんは冷えてないわよ」
「邪魔者かもしれませんが、食卓に加えてください」
「どうしてもと言うなら、座らせてあげなくもないわ」
「アリガトウゴザイマス」
侑子と佳孝が席に着く。伯母は三人分のごはんをよそってから、椅子に座った。佳孝が箸を手にしてため息をつく。
「仮にも長男に対してこの仕打ち……」
「だったら頼りがいのあるとこ見せてみなさいな」
「重い荷物を運んだり、高い場所から取ったりしてるだろ」
「男の子だったら基本。それができないようじゃ使いどころゼロじゃない」
「ひどすぎる……」
打ちひしがれる佳孝に、侑子はくすくす笑った。食事を始めた彼女を、いとこは恨めしそうに見る。
「うちの親って、侑子のほうを百倍は可愛がってるよな」
「そ、そんなことないよ」
侑子はあわてて否定するが、伯母が笑い飛ばした。
「可愛がるに決まってるじゃない。女の子なのよ。図体がデカイばかりのあんたとは違うの」
「ぐれるぞ」
「家に帰ってこなくなるのね。食費がだいぶ浮くわ。侑子ちゃん、ショッピングに行って帰りはケーキバイキングしましょう」
「おーい、母親。エンジョイしてどうする。すこしは心配しろ」
「あんたは放っておいても大丈夫よ」
「あんまりだ……」
毎回こんなやり取りが繰り広げられる。侑子は笑うばかりで、なかなか箸を進めることができない。
遠山家と隣でないころは、一人で食事する日もあった。あの淋しさは過去のものだ。
ほっとする相手がいること。一緒に笑えること。
不意に琢哉を思い出して、胸がチクリとする。浮かない表情になった彼女を、佳孝が不思議そうに眺めた。
「食欲ないのか? それとも、どれかまずかったとか」
「ちゃんと美味しいよ」
否定して、焼きサバの身を口にする。いい味だ。けれど、思うように箸が進まない。しばらくしてから、侑子は遠慮がちに言った。
「ごめんなさい。お腹いっぱいみたい」
「無理して食べる必要はないって。ちょうどいいと思うぐらいにしとけ」
「伯母さん、つい作りすぎちゃうから。あとは佳孝が片付けてくれるわ」
いとこは母親に異論のありそうな顔を向けたが、切り替えて侑子を気遣った。
「急に暑くなったから体調がついていってないんだろ。叔父さんはまだ帰ってこないよな。ソファーで休んでろよ」
「それとも侑子ちゃん、横になる? だったらお布団を敷くわよ」
「大丈夫。ごちそうさま、伯母さん」
「お粗末さまでした。お皿洗いは佳孝がやってくれるって」
彼が観念した様子で、その言葉を引き取る。
「片付けはワタクシめにお任せを」
「お母さんはお風呂を沸かしてこようっと」
伯母は侑子をソファーに座らせてから、いそいそとリビングを出て行った。佳孝が食器類をキッチンに運ぶ。
「ごめんね、よしくん」
「母さん必要以上に心配性だから、早く元気になれよ」
「うん。心配性はよしくんも受け継いでるよ」
「まじで? うわー、勘弁してくれ」
佳孝が、布巾でテーブルを拭きながら顔をしかめた。侑子は尋ねる。
「いやなの?」
「あったりまえだろ。俺としては、叔父さんに似たい」
「ええー、お父さんに? よしくんは、よしくんでいて」
彼女の反論に佳孝が笑った。
「俺ら、反抗期な」
そして冷蔵庫を指す。
「何か飲むか?」
「うーん、りんごジュースある?」
「母さんが、侑子の好きなもんを切らすわけないだろ」
佳孝は1リットルのビンを取り出した。中身をグラスに注ぎ、リビングへやってきてローテーブルに置いた。
「ほらよ、お嬢さま」
「テキトーなんだか丁寧なんだか」
侑子は笑いながら冷えたジュースを飲んだ。
佳孝がキッチンで洗い物をする。侑子は半分へらしたグラスをローテーブルに戻し、ソファーに身を沈ませた。
テレビでは音楽番組が流れていた。司会二人と女性シンガーがプライベートについて会話する。興味のない歌手なので、侑子はぼんやり聞き流した。
すこし胸が気持ち悪いかもしれない。けれど、お喋りで気が紛れるていどだ。
ここ数日で急に気温が上がったから、体調に異変をきたしてもおかしくない。無理はしないでいよう、と侑子は思った。
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