距離

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距離

 三組は隣のクラスだが、目的を持って行き来しなければ顔を合わせないものだ。  水着の件で担任と話す琢哉を見てから、一週間たった。あれ以来、彼を目にしていない。バッタリ会ったら、話しかけられたら、と身構えていただけに、侑子は拍子抜けした。  転校してきた当初と違い、噂はなくなった。目立つ生徒ではないからだろう。  芸術の選択が同じ静香に、彼の様子を尋ねてみる。 「普通に授業を受けてたよぉ」  こうなったらなったで淋しいのだから、勝手だ。侑子は自己嫌悪した。 * * *  ある日の放課後、侑子は同じ班のクラスメイトと物理室に移動した。二組の向かいにある特別教室で、掃除当番が回ってきたのだ。  この班は作業をさっさと終わらせようという共通意識があり、掃除はスムーズに進む。  物理室をきれいにしたあと、箒などを片付けて椅子を並べなおす。みんな、部活だ帰宅だとその場をあとにした。  侑子は最後に出て、ドアを閉めた。  何気なく三組を見る。ちょうどそのとき、リュックを肩にかけた琢哉が出てきた。階段のほうへと廊下を遠ざかる。  それを追うように男子が現れ、「楠」と呼びかけてノートを掲げた。  琢哉が振り返り、ああ、忘れていたという顔をする。ノートを受け取って、謝意を告げる。  その視線が、物理室の前にいる侑子を捉えた。  彼女が会釈しようかと思ったとき、琢哉の表情がピシッと強張る。即座に視線を逸らして、唇を噛みしめる。  クラスメイトには何でもない顔を向けて「それじゃ」と言い、身をひるがえした。早足で廊下を歩いていき、階段へと消える。  侑子は予想外の事態に唖然とした。  なに、今の……?  あんな彼を見たのは初めてだ。まるで、嫌いな相手に出くわしたような態度だった。すくなくとも、会いたい様子ではなかった。  あの穏やかな笑みが、急速に遠ざかる。  こちらが距離を置いたことに気付いたのだろうか。私が過去を思い出せないから、愛想を尽かしたのだろうか。  彼を追いかける勇気はなく、それができたとしても、さっきの反応の理由なんて聞き出せない。  二組から出てきた女子が、立ちすくむ侑子に目を留め、声をかけてきた。 「高瀬さん、帰らないの?」 「あ、うん。帰る」 「じゃあ、ばいばーい」 「ばいばい」  侑子は教室に戻る。こちらの掃除も終わっていて、クラスメイトがちらほらいるだけだ。  のろのろ帰り支度をしてから、席を離れる。教室を出て、遠回りになる一組側の階段を下りた。 * * *  四限のチャイムが鳴ったあと、侑子ら三人は財布を持って廊下に出た。向かう先は学生食堂だ。  中庭に行く生徒、購買を目指す生徒などが行き交う。三人は、「何を食べよう?」「暑いからさっぱりしたものがいい」と喋りながら階段を下りた。  いつもどおり食堂は賑わっている。彼女らは注文の列に並び、料理を受け取って席に着いた。  美味しそうにオムそばを食べる真琴だったが、近くの一年生がプリントを広げるのを見て、暗い顔になった。 「一週間後には期末だなんて。古典やばいよ、あんなの日本語じゃないー」  静香が不思議そうに首を傾げる。 「コツをつかめばすぐだよぅ。まこちゃん、取り組むまえから拒否してるもん。優しく受け止めればいいのに」 「『わびさび』なんて分かんなくても生きていける! 日本人らしくなくてけっこう、これからは国際派だ」 「じゃあ、今回は英語に力を入れるんだぁ」 「はぁ、生きにくい世の中よ……」  いまひとつ覇気のない真琴だが、食事のスピードはいつもと同じだ。そのため、侑子と静香は心配しない。  グラスの水を飲んだ真琴は、カウンターを見て「あ」と声を上げた。 「転校生、発見」  侑子は一瞬ためらって、チラッと振り返った。  離れた場所で、琢哉と男子生徒がトレイを持っている。琢哉がスッと左を指し、彼らはそちらへ歩いていった。 「久しぶりに見た。一緒にいるの友だちかな」 「そうなんじゃなぁい?」  二人が生徒の山に紛れたあと、侑子はテーブルに向き直った。真琴が身を乗り出す。 「こっちに来たら、『空いてるよ』って教えてあげたのに。ね、侑子」 「え……」  彼女は答えられずに、箸を持つ自分の手を眺めたが、ふたたび友人を見た。 「こっちに来そうだった?」 「うん。でも向こうで席を見つけたみたい」 「……そう」  近づきかけて、離れていった。そう感じるのは考えすぎかもしれない。しかし、先日の琢哉の態度が、侑子の心に引っかかっていた。  静香が彼女の横顔を覗き込む。 「ゆうちゃん、あの人となにかあった?」 「……なにもないよ」  真琴は意外そうな顔をする。 「喋ったりは?」 「ぜんぜん」 「そっか。向こうから働きかけてくると思ったのに」 「……友だちができて、いろいろ用があるんじゃないかな。もうすぐ期末だし」 「こっちで最初の定期テストか。大変だ」 「まこちゃん、他人事じゃないでしょ~」 「うっ、忘れてたのにー」  話題がゆるやかに逸れていく。侑子はホッとして、考えるのをやめた。  昼食を終えてトレイを下げるとき、琢哉が向かったあたりを見渡す。混雑の緩和した学食内に、彼の姿はなかった。
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