10人が本棚に入れています
本棚に追加
変化
それから侑子は、登下校で一組側の階段を使うようになった。
下足室からは六組側のほうが近く、ほとんどの生徒がそちらを利用するため、遠回りすると空いていて歩きやすい。
二階には一年の教室が並ぶ。あたりを行き交う生徒は幼いが、春よりは高校に馴染んだ様子だ。それを横目に見て、侑子は三階へ向かう。
踊り場まで数段というとき、バタバタと下りてくる足音がした。
「いるのはCDラジカセとコードだよな。って、間に合うのかこれ」
声がしたとたん、階段を折り返す男子がパッと目の前に現れた。侑子は驚いて足を止め、手すりに身を寄せる。
彼は勢いのまま下りながら、回り込んだ。向こうの壁に腕をついて、ホッと息をつく。改めて侑子に目を向け、申し訳なさそうに顔の前で手を立てた。
「ごめん。ビックリさせて」
「ううん、大丈夫」
「良かったー。衝突したらシャレになんなかった」
侑子は安心させるために笑ってみせた。
けれど、相手が三組の仁科であることに、ハッとする。ほとんど知らない人だが、このあいだ学食で見かけた。
踊り場にもう一人が姿を現す。栗色の髪がハッキリしている。
彼は左右どちらにも目をくれず、足早に階段を下りた。
「行こ」
「あ、置いてくなよ、楠。ほんとごめんッ」
後半は彼女に告げ、仁科があわてて追いかける。
侑子は二階を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。
* * *
目の前で、青いシャーペンが上下に揺れる。
ぼんやりしていた侑子はその動きで我に返り、こたつテーブルの向かいにいる佳孝を見た。いとこはシャーペンを振るのをやめ、しょうがないなと笑みを浮かべた。
「今日は集中できないみたいだな」
「あっ、ごめん……」
テーブルには教科書やノートが広げられている。
ここは佳孝の部屋だ。一人よりはかどるので、試験前はよく一緒に勉強する。分からないところを教えてもらうこともあった。
佳孝は世界史、侑子は生物に取りかかっていた。彼女はノートの1ページ目で停滞中だ。
「復習しなきゃ」
「ちょっと休憩しよ。ルーズリーフ買いにコンビニ行きたいんだ」
「私も行くの?」
「息抜き、息抜き」
佳孝は立ち上がって財布をジーパンのポケットに突っ込み、侑子を促した。玄関で靴を履いていると、リビングから伯母が顔を覗かせた。
「もうすぐ夕ごはんよ」
「そこのコンビニだから」
「遅くならないようにね」
佳孝は侑子の背中を押して外に出た。
「チャリじゃなくて歩きで行くか」
「うん」
「じゃあ、レッツゴーだ」
門に向かう彼のあとを、侑子は追う。
町は夕焼けに包まれてオレンジ色に染まっていた。空は無造作に雲がちぎれ、西のほうが金色に輝く。陽光で山の輪郭がぼやける。
「空がきれい」
「ほんとだな」
「ごめんね、勉強してたのに」
「この程度の息抜きでどうにかなるほど、成績ヤバくないって」
侑子はクスッと笑った。
「通知表、赤ばかりにならない?」
「だったら、俺に教わってる侑子はもっと危ないぞ」
「やだ、うつさないでー」
「俺のせいかよっ」
やれやれという顔になる佳孝と共に、のんびり道を進んだ。
家族とくだらないやり取りをするとリラックスする。イヤなことや哀しいことがあっても、元気を取り戻せる。
暑さが和らいで涼しい風が吹く。遠くで木々の葉がざわめいた。
「ねぇ、よしくん」
「んー?」
「夏祭り、行ける?」
「仲間はずれにする気かよ」
「だって……」
侑子が言いよどむと、佳孝は顔を向けてニッと笑った。
「受験生だからって? 一日でどうにかなるほどヤバくない」
「ほんとに? 嘘じゃない?」
「俺、信用ねぇのな」
「違うよ。家族みんなで行くのがいいもん」
侑子がすねた口調でひとりごちる。佳孝はなだめるように彼女の頭を撫でた。
「お前が駄々こねてるうちは、付き合ってやんないとな」
「私のせいみたい」
「いえいえ。侑子サマのおかげです」
「なんとなくむかつくー」
「気難しいお嬢さまだこと」
やがて、明るいコンビニが見えてきた。佳孝が提案する。
「食べたいお菓子があったら買ってやるよ」
「わーい。じゃあ箱買い」
「……予算は五百円まで」
「ひとくちチョコだったらいっぱい買えるね」
「店員とほかの客に迷惑だから、ほどほどにな」
「注文の多い財布だなぁ」
じろりと睨む佳孝に、侑子はいたずらっぽく笑った。
コンビニに入る。佳孝は「ちょっとだけ」と断って雑誌コーナーへ行き、スポーツ誌を開いた。侑子はお菓子の棚に向かい、新製品をチェックした。
小箱チョコを手にして、棚越しにいとこの背中を眺める。
佳孝の第一志望の大学は、ここから通うにはすこし遠い。いつまで兄妹みたいにしていられるのだろう。
ずっと今だったらいいのに。侑子は願っても仕方のないことを思った。
最初のコメントを投稿しよう!