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「ゲンゴロ! あれを見るのだ!」
ハタタカは前方の三叉路を指差し、下男に声をかけた。が、当の青年は車の後部座席で、毛布を被って知らんぷりをしている。十歳の少女は毛布を丁寧に剥ぎ、あらわれた白髪の青年にもう一度同じことをしてみせた。
ゲンゴロは、まず眩しさで、ついで主人の指す先の光景に、片目をしかめた。
古道の三叉路の一角、大樹と標識の周りに、無数に立ち並ぶ二又の枝。
車は三叉路の前で止まった。ハタタカはゲンゴロを連れて、枝が立ち並ぶ一角へと向かう。
「北の民はここで枝を立てて、三叉路の神様に旅の安全を祈る、と聞いたのだ」
少女は、近くの木の周りに落ちている枝を拾って立てた。
「ゲンゴロもここで祈ったことあるのだ?」
「ああ…まあ」
北の民ゲンゴロは、ボンヤリと返事した。かつての仲間とここを通ったのは、まだ北に国があった頃のことだ。当時の暖かな記憶が、心に爪を立てて軋む。
「じゃあ、この枝の中にゲンゴロが立てたのも」
「ねぇよ」
思わず乱暴に答えてしまい、下男は内心舌打ちした。知らぬこととはいえ、あるじは喜ばそうとここに来たに違いないのだ。
「……昔すぎて、もう残ってないのだ?」
「俺らは立てたまんまにしねえのさ」
ゲンゴロは、背中の十手を抜き、振って構えた。楽園への長い道のりと、地獄への短い道のりを表す、世界の縮図。
「俺らにとっちゃ『偉大なる三叉路は、常にそこにあり、しかして常に動くもの』。二又の枝は、神様に足を止めてもらい、言葉を聞いてもらうための合図。用が済みゃ下げる。神様もまた他所へ行っちまぁ」
十手を振り、背中に戻す。
「俺らの神様は、そういうもんだ。だから枝をずっと立ててはおかねぇのさ」
「そうなのだ?……これは神様ではないのだ?」
不思議そうに枝の群れを見るハタタカに、ゲンゴロは苦く笑った。
「オメェらテマリ新教徒は、あちこちに神様の像を立てて置くから、そう思うよなぁ」
きっと、新教大国テルテマルテに制圧されてから、神像を常設して祀る文化が北部旧教の風習に混ざったのだろう。下男は片目を細めた。
これが、戦に負けるということ。
「じゃあ…私が立てたのも、抜いたほうがいいのだ…?」
ハタタカは枝を抜いた。
「立てておくのが今の決まりなら、それでいいんじゃねぇか。オメェらの神様はそういうモンなんだろ?」
少女は考え、もう一度挿して、もう一度祈った。旅の安全と、使命の成功を。
ゲンゴロも枝を拾い、振って土に差し、旧語で祈りの言葉を述べた。北の民は、神様には旧い言葉で話すのが決まりだ。
ハタタカに旧語はサッパリわからない。だが、普段は荒っぽく無礼な下男が、神様の前ではとても礼儀正しくなる。その姿が結構好きだった。
ゲンゴロは、枝を抜きかけ、少し躊躇い、やっぱり抜いた。それが、彼の神様との決まりだ。例え国が滅びて久しい今、なおこの世界に居てくれるか、わからなくても。
二人はまた車に乗り込んだ。
「ゲンゴロは何を祈ったのだ?」
「……道の終わりまで歩ききれるように、と」
「私と同じなのだ!」
同じではない。ただ、笑顔の主人に無粋な指摘はせず、下男も笑顔を作ってみせた。
昔の記憶とおかした罪が、度々ゲンゴロを押しつぶす。軽くしろとは思わない。これは己が抱えるべきもの。それでいい。
だが、自分に手を差し伸べた、この小さな主人の為に。
この子供が背負わされた、大きな使命の為に。
三叉路を振り返る。
『偉大なる我らの神よ、もしまだこの天地にいらっしゃるならば。
この罪と穢れた身を抱えて尚、最後まで主人の為に、歩を進められますように』
下男の倒した枝が、風に吹かれて転がっていった。
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