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正清は等身大の姿鏡を見ながら、袖口のカブスボタンをつけていた。正清の心に憂いなどなく、むしろ清々しいほど晴れていた。
ここは神田の屋敷。婚約パーティーが行われる場所である。
トントン
「あと30分です。御用はございませんでしょうか」
会場の仕え人が最後の御用聞きにやってきた。
「大丈夫だ。あ、いや。やはり一つお願いしたい。どうも疲れやすくてね。簡単でいいから横になれる場所を作ってもらいたい」
「承知いたしました」と頭をさげたところで、その仕え人を押しのけるように珠代が入口から入って来た。
「ちょっと、邪魔よ。入り口を塞がないでよ」
その声に正清は「何事」と振り返る。
どかどかと無遠慮に部屋に入って来た珠代は、まるで日に焼けすすけたような紫色の着物を纏っていた。正清は一目みて珠代の選ぶ着物の残念さを嘆く。
(愛子がいないとこのセンス。恐ろしいものだな)
「ご機嫌よう。正清さん」
珠代も気分が良いようだ。意気揚々としていて、どこか興奮冷めやらぬ様子である。
正清は感情のない表情をつくる。
「ここは関係者以外立ち入り禁止なはずです」
そして、無感情な視線を送る。しかし珠代はくすくす笑う。
「なんの冗談ですの? 私はあなたの婚約者でしょう? こんな丁寧にお触れまで出しといて」
田代が招待者に贈った、正清が命の恩人と結婚をする旨の手紙をヒラヒラ見せた。
「だからなんです? 関係のない者は出ていってください」
と正清は珠代にぷいと背を向けた。
「まあ、照れていらっしゃるのね。正清さんもようやく現実を受け入れてくれて、珠代も嬉しいのよ。そんなに素敵な旦那さまなら、愛子の一人くらい妾にとってもよろしくてよ」
と、珠代は「ほほほっ」と高笑いした。
「妾など不要だ。そして、君も」
正清は後ろ姿のまま答えた。
「まぁいいわ。本番ではきちんと宣言なさってくださいね。では先に会場に入りますわ。華族への挨拶周りがありますから」
そう鼻を高くして、珠代は部屋からでていった。
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