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「愛子! 愛子! どこにいるのっ!」
母屋の縁側廊下から怒鳴るように叫んでいるのは、白崎照子だ。身を纏う着物はそれなりのものだが、肌は白くしまりがない。普段の堕落した生活が一目でかわる。今日も愛子を使用人の如く使いまわすつもりのようだ。
「お義母さま、愛子はここですよ。これ見てください。新鮮なお野菜でしょう。長屋の美和さんから採れたてを譲って頂いたんですよ」
春野菜が入った籠を照子に見せながら嬉しそうにしているのが、白崎愛子だ。愛子は艶のある豊かな黒髪を結い上げ、汚れても目立たぬようにといつも紺色の綿着物を着ている。いつも微笑みを絶やさない女子だ。
「また、井戸端のくだらないおしゃべりに参加していたの? 本当におまえは暇人だね。やることはたくさんあるのよ!」
照子は手を腰につけながら愛子をしかりつける。愛子は負けじと笑顔を崩さない。
「でも、お義母さま。井戸端のお話しも役に立つのよ。流行りの食べ物やお店、お買い得情報をもらったり」
愛子はそういって野菜を縁側に置き、おでこの汗をぬぐった。
「子爵家の私が井戸の端で下賤に混じるなんて、するわけないでしょう?」
照子の鼻息は荒い。
「そうですか? みなさん、本当によく見聞きしていて、大正になって時代の流れが変わったなとよくわかりますわ」
「そんなことは、どうだっていいっ。早くお茶の買い出しに行ってきなさいっ。今日は大事な客人がくると言っていただろう!さっさと行ってきなさいっ!」
「お茶は買ってきました」
「最高級だろうね?」
高い値段だから高級、というわけではない。ブランドでなくとも美味しいお茶は沢山ある。それを説明したところで、怒られ一蹴されるだけだが。
「試飲をしたら、甘みがあってまろやかで、素晴らしいお茶でしたわ」
「くだらないうんちくなど、どうでもいい。客人に粗茶など出したら許しませんからねっ!」
そう言い切って、照子はプイッと顎を上げ部屋の奥へと消えた。どうせ、照子に試飲させたところで、価値はわかるまい。いつも通り、といってしまえばそれまでだが、美味しいお茶を買っても、新鮮な野菜をもらっても、一緒に喜びあえぬのは淋しいものである。愛子は小さく溜息をついた。
「愛子っ! 愛子はどこっ!」
今度は照子の娘である珠代が、怒号とも思える声量で愛子を呼びつける。
珠代も母親と同じく色白で引き締まりのない体つきだ。髪型こそ流行の耳隠しだが、派手な色の着物を好むところが上品な令嬢と言われない所以だ。
「どこで油うってるのよっ。正清さまが来ちゃうじゃないの!私の晴れの日なんだから、1番高価で見栄えのいい着物を準備しなさいよっ!」
親子そろって「1番高いもの」が好きなようである。これには愛子も少々呆れる。
「はいはい、準備します」
「サッサっと動きなさいよねっ」
口だけは一生懸命に動かすけど体は動かさない。親子とはこうも似る者である。
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