菫色のネガ

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夏希は出版社という出版社に片っ端から電話しまくった。が、そういう写真家は見つからなかった。それ以来写真集が出ている様子もない。 「ああそれ、あいつのことかも」 ようやく知っていそうな人間にぶつかる。かなり年配のフリーライターで、何度か鳥関係の仕事を一緒にしたという。 すぐにも飛んで行きたかったが、研修医の身ではやることがありすぎた。患者さんの容態次第で時間に自由が利きにくく、やっと身体が空いてもそのライターさんが仕事中だったりでなかなか会えない。 「今ならあの喫茶店にいるかもしれない」 そのライターさん本人に会うより先に、急にそんな連絡が来た。 ちょうど一人で事務処理中だった。遠くない。ちょっとだけ席を外しても―― 乗り継ぎのタイミングが悪い電車に、余計に気持ちが逸った。それでも20分で着いた。 飛び込んで見回したが大柄な男はいない。空席が一つ。飲み干したコーヒーカップがまだテーブルに置いたままの。 「すぐ片付けますね」 ウエイトレスさんが片す前に触ってみたコーヒーカップは、まだ温たかだった。 「あの、ここにいた人は」 「あの大きな方とお待ち合わせだったんですか? ええと、ついさっき」 夏希は店を飛び出した。けれど姿は見当たらなかった。どっちへ行ったのかもわからない。 ついさっき。もう1分早ければ。もし1本前の電車に乗れていたら。 その数日後、ようやくライターさんと会うことができた。 「『古いコーヒー回数券が出てきたけどあの喫茶店はまだあるか』なんて電話があってね。え、会えなかった? 1つのところに落ち着かない奴だったからな――行き先の心当たりと言っても……ちょっと関西弁のトーンがあったかな、くらいで」 夏希は肩を落とした。一歩近づいたと思ったのに、また何倍も遠くへ行ってしまった気がする。 「オレの知ってるあいつは、帰国するとフリーで写真を雑誌に売って稼いだ金でまた海外に動物を撮りに行く、ってスタイルだった。でももう写真は撮ってないのかも」 「え? どうして」 「カメラ売ったって言ってたから。写真集も出てさあこれからって時にさ。次はどんな動物撮るのかオレも楽しみにしてたんだけど」 結局また行方知れず。追っても虹のように遠のいていく。 でも、枕元にある写真集はきっとあの人のもの。その鳥たちの優しくて力強い写真を見るのが、夏希の日々の楽しみになった。
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