有川似の甲斐田

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有川似の甲斐田

 *****    その男は甲斐田(かいだ)努(つとむ)と名乗った。なんでも彼は私が手に入れたスケッチブックの持ち主なんだという。 「ま〜たまたぁ〜、夢で人と会うなんて臓器移植じゃあるまいし! きっと私の作り出した幻想だね。そう思えばこんな奴大学の時クラスにいた気がするし」 『いや誰だよそれ、他人の空似も良いとこだろ。第一ここが夢の中ってどういうことだ?』 「ふんぞり返って聞くのやめない? 夢の中は夢の中だって! あーあ、レム睡眠は疲れが取れないのに〜〜」  とりあえず目よ覚めてくれーー!と念じた瞬間、愛はパチリと目を開けた。天井にはカーテンから漏れ出た陽の光が差し込んでいる。チチチ……と鳴く鳥の声を聞きながら茫然とした数瞬後、ガバリと布団を跳ね除けた。 「待って、今何時!?」  時刻は8時50分。今日は月に一度設定した出勤日。勤務開始時刻は9時だ。  愛はフリーの絵師だが、そういったフリーランスの人間用の互助会のような会社に所属していた。給料を貰うのではなく、逆に月額いくらかを支払うことで面倒な事務処理を代行してくれる。一応会社としてのビルも有り、自分で設定した日程は会社で勤務することが可能だ。  家では仕事にならないというタイプのための処置だが、フリーという個人での仕事ばかりしていると、隣で似たような働き方をしている人に色々相談できるのは案外貴重だ。 とはいえ、出勤日の勤務時間は申請した通りに行わなければ罰金を支払うことになる。  サーッと血の気が引く頭を、思考停止一歩手前で留めて慌しく支度をする。朝ご飯は当然食べられない。 「最っ悪だし! 全然寝た気しないんだけど!?」  あんな夢見たせいだ!ウガーーッ!と叫んだ声は安アパートの壁越しに鳴り響いたらしく、ドアを出た瞬間かち合ったお隣さんに心配される始末。  残業、寝不足、許すまじ。     「そう思って今日は定時退社したんだけど? 何でまたおんなじ夢!?」 『知るか叫ぶな、うるさい』 「やっぱ誰だよお前! 有川はこんなに性格悪そうなイメージないんだけど!」 『お前も口悪くないか? それに俺は甲斐田だっつってんだろ、鳥頭』  鳥頭!? 昨日の今日で忘れるか馬鹿野郎!! と地団駄を踏む愛は夢の内容を覚えていた。普段は基本夢を見ない、見たとしても覚えていないタイプなのにはっきりとだ。正直気味の悪さを感じ、警戒していた。  だから一応貴重な出勤日にゴリ押しで定時帰りを実現させたのだ。その上いつもより考えられないほど早くに寝た。22時に寝るなど、夜更かしするのは大敵だと刷り込まれていた中学時代以来のことだ。  勿論、例のスケッチブックなど視界の端にも入れていない。 「何なん!? 悪霊!? 脳波ハッキング!? あんなんあと20年は先の技術だって言われてたじゃん!」 『だから……まあいい。とりあえずここはお前の夢の中ってことにしてやる。それでいいから、さっさと俺のノートを返せ』 「何コイツ……1から10まで言動がムカつくんですけど。何か前もそんな事言ってた気がするけど……返せって何?」 『その手に持ってるノートだよ、ドロボウ』  はあ? 誰が何を持ってるって? と視線を手に向けると、そこには確かにあの白紙ばかりのスケッチブックが。いつの間に持っていたのか。全然自覚が無いが、やはりこの奇妙な夢はこいつが原因らしい。これを渡せば目的を達した男は夢に現れなくなるかもしれない。  しかし、しかしだ。  この嫌みな男の言う通りにするのは何〜かとってもムカつくし、何より不思議なノートと非現実的な夢の中の縁。  こんな面白そうな出来事、簡単に手放すような現実主義なら絵師なんてしていない。 「……ヤダよ。私が買ったんだし」 『そうか。悪かったな、手違いだ。諦めろ』 「はぁ〜〜!? 何でよ! 嫌ですぅ、私が買ったんだしもう私のものですぅ〜」 『何急に小学生化してんだ、足元見やがって。金なら払う、いいから寄越せ!』 「ど〜〜しよっかなぁ?」  思い切りにやにやしてやった。愛の悪い顔に案の定男は顔をしかめる。というかコイツは夢の中でどうやって金を払うつもりなんだろう。 「手元に一銭も残らなさそう」  ボソッと呟いた愛に男が怪訝な顔をする。ノート自体はおそらくお金がかかってない。うろ覚えだが買ったときの金額的には多分そうだ。だから正直、コイツが金を払うかどうかはどうでもいい。  まあ、何だかんだ言ってもいつかは返すつもりはある(方法は謎だが)。かといって素直に渡すつもりもない。どうせなら、この性格の悪い男にひと泡吹かせてやりたいので。   「あ、いいこと思いついた。有川的な甲斐田はこのスケッチブックの持ち主なんだよね?」 「有川枕詞にするのやめろ。……そうだけど?」  何か嫌な予感でもしたのだろう、甲斐田は警戒したように少し心持ち身を引いてこちらを見る。しかしそんなことはお構いなしに、愛はまっすぐ指を突きつけた。 「お金は払わなくていいよ。その代わり、私に絵の描き方を教えて!」  げ、と心底嫌そうな顔をした甲斐田に愛が勝ち誇った笑みを浮かべる。溜飲を下げた愛は、満足そうに頷いてスケッチブックを抱きしめた。
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