八月の神様

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八月の神様

  はじめちゃんと私  四年二組 南 七瀬    はじめちゃんは私がまだ四歳の時にうちへやってきた、お手伝いさんです。  お手伝いさんといっても、べつにうちは大きなお屋敷でもなければ、はじめちゃんの他にメイドさんや執事がいるわけでもありません。  私ははじめちゃんが大好きです。はじめちゃんは、おいしいご飯をいつも作ってくれます。お掃除も、お洗濯もしてくれます。  けれど私の、はじめちゃんの好きなところは、そこじゃありません。  はじめちゃんは私の話を聞くときに、何かをしながら聞くということを決してしません。必ず手をとめて、目を見て、うんうん頷いてくれます。  はじめちゃんはいつも良い匂いがします。はじめちゃんを臭いと思ったことは一度もありません。例えるなら、石鹸みたいな、優しくてほっとする香りがします。  だから私はいつも、トイレで手を洗う時、はじめちゃんを思い出します。これを本人に伝えたら、ちょっと微妙な顔をされました。     「――とにかく、そんなはじめちゃんが私は大好きです、終わり」 「ちょっと、そんな恥ずかしい文章読まないでよ」  むっとする私に対して、はじめちゃんはくすくす笑いながら原稿用紙に向けていた顔を上げた。分厚いレンズが嵌められた丸い眼鏡の奥で、細い瞳が更に細くなりながら弧を描く。 「たったの数年前はこんなに可愛かったのになあ」 「ふふん、今でもじゅうぶん可愛いでしょうが」 「いやあ、そりゃまあそうだけどさあ」  よいしょ、と立ち上がって、拳で腰のあたりを叩くはじめちゃん。最近はとんとおじさん臭くなった。  この間三十歳になったばかりで、まだ若い部類に入るはずなのに、買い物へ行く以外日中のほとんどを家で過ごすはじめちゃんは、普段は童顔なのに、たまにゾッとするほど老けてみえる。本人に言ったらショックを受けるだろうから、口にはしないけど。  はじめちゃん、なんて呼び方をしているし、実際かなり中性的な見た目をしているが、はじめちゃんはれっきとした男性である。  皮と骨しかないような薄い体に、私と同じくらいしかない低めの背、それに、大きな眼鏡をいつもかけているから、パッと見男女の区別がつきにくい。 「はじめちゃん、今日のごはん何?」 「ロールキャベツ。冬子さん、今晩は帰ってくるらしいから」 「げっ、本当? 最悪」 「こら、そんなこと言うもんじゃありません」  ぴしゃりと言われて、私は黙った。はじめちゃんは呑気そうに見えて、結構頑固だ。  冬子さん、というのは私の母親の名前だ。  娘の私でも、ひとたび微笑みかけられたものなら思わずドキリとしてしまうほどの美人で、その美貌を余すことなく生かして女優業を営んでいる。 『天使が間違えて地上に落っこちてきてしまったんじゃないか』  なんてそんな、歯の浮くような賞賛を、多くの人があの人に対して恥ずかしげもなく口にする。(そういうことを言ったり書いたりするのは、たいてい得意げな顔をしたおじさんだけど。)  私はそんな人気女優の、最初の夫の一人娘である。  顔のパーツのほとんどは父に似たようで、残念ながら母のような魔性の美貌を持ち合わせることはなかったが、目元だけはそっくりだとよく言われる。 「口と鼻と額と髪を全部隠したら、冬子さんそっくりだよ!」  あはは、わはは、くすくす。  うるさい、うるさい、うるさい!  人の見た目をどうこう言っちゃいけませんって、教わんなかったの!?  なんて、そんな風に反論できるだけの度胸を持ち合わせているはずもなく、ただ拳を握りしめて俯く日々。  不思議なことに人間は、太っているとかガリガリだとか、背が高いとか低いとか、そういうパッと見てわかる身体的特徴のことをどうのこうの言うことは良くない、と当たり前のように言い切るのに、母親と比べてどうとか、母親に似ているとか似ていないとか言うのはセーフだと思っているらしい。  どちらにせよ、幼い私はそういう無遠慮な声に深く傷ついたのだから、セーフなんかじゃない。アウトだ。  けれど、私に対してアウトな言動をした大人のほとんどが、いや、もしかしたら全員が、私がどれだけ傷ついたのか、気づいていない。気づこうともしない。  そういう事実が、幼い心を更に深く傷つけた。  しかし、はじめちゃんは違った。 「え? 目元? うーん……ちょっとごめんね、俺視力悪くて」  初対面の時、「この子の目、私によく似ているのよ」と小鳥みたいに笑う母の言葉に、はじめちゃんは眼鏡をずらして頭に乗せ、顔を近づけてきたかと思うと、 「ああ、本当だ。でも、お母さんと違って君の目はちょっと赤みががっていて……なんていうんだろう、琥珀色っていうのかな。宝石みたいで綺麗だね」  と、言った。  私はあの時の、電撃が走ったような衝撃を、今でも忘れられずにいる。  実際にはそんな意図は絶対になかったのだろうけど、なんだかまるで、お母さんより君の方が綺麗だよ、なんて言われたような気分になったのだ。  私は単純だから、そういうことを言われると、コロッと懐いてしまうのだった。 「冬子さん、七瀬のこと、心配していたよ。メッセージ送っても無視、電話しても無視、手紙まで書いたって無視される! って」 「だって……またお涙頂戴番組に嘘の話書かれるの、嫌なんだもん」 「う……それは、確かに、そうだね」  しめしめ。はじめちゃんはこれに弱い。  前に一度、『真相・あの芸能人の家庭に迫る!』だとか『母と娘の感動の実話!』だとか、そんな薄っぺらいうたい文句を掲げた番組に、私と母のあることないことを取り上げられたことがあるのだ。  病気で亡くなった夫、悲しみに嘆く美しい女優、それを支える健気な娘……。  なんだこりゃ。  はじめちゃんお手製のシチューを食べていた私は、片手に持っていたスプーンを思わず落としてしまいながら、率直にそう思った。  一回も言ったことがないような感動の名言をすらすらと口にする、テレビの中の私(に、全然似ていない再現VTRの子役)を唖然として眺めながら。  翌朝学校へ行くと、担任の先生がほとんど泣きながら「南、お前はなんて立派なんだ、感動したよ!」と手を握ってきたり、意地悪な男子から「ご立派なオジョウサンデー」なんて、テレビの中で与えられていた賞賛を真似してからかわれたりと、周囲からの私への評価が良くも悪くも一変したのをひしひしと肌で感じた。  たまらなかった。  あの時ばかりは神経の図太い私でも、流石にげんなりしたものだ。そして、現在進行形でげんなりしている。  はじめちゃんはそういうことを、よくわかっている。  実際にはあの時の怒り(というより、ムカつき?)や戸惑いは月日が経つにつれてだいぶ薄れたが、この話題を口にするとはじめちゃんはいつもより優しくなるので、私は何か母に関して逃れたいことがある時は、この話題を蒸し返すようにしている。  我ながら策士であると言えよう。 「じゃあ……そういうことだから私、ちょっと出てくるね」 「えっ今から!? だって、冬子さんもうすぐ帰って来るし、七瀬に会いたがっていたのに……!」 「会いたいなら、ここに住めば? って言っておいて」  私が言うと、はじめちゃんは泣きそうな顔をした。  失敗した。  今のはべつに、はじめちゃんを攻撃したかったわけじゃないのに。 「……とにかく、そういうことだから」  そう言い残すと、私は逃げるように家を飛び出した。  はじめちゃんの泣きそうな表情を脳裏に思い浮かべる。脇腹のあたりがむかむかする。  可哀想なはじめちゃん。我儘な女と、もっとわがままなその娘の間で板挟みになって、いつも眉根を寄せている。 「……あーあ」  困らせたいわけじゃないのに、どうして私はいつもこうなのだろう?  はじめちゃんのことが大好きだ。優しい笑顔も、ほっとする匂いも、暖かい声も、全部全部好きだ。はじめちゃんは私にとってお母さんであり、お父さんであり、お姉ちゃんでありお兄ちゃんであるのだ。  だから、はじめちゃんがお母さんと私をなんとかして仲良くさせようとしているのを感じると、なんだかまるで、ずっと繋がれていた手を急に離されて、ぽんっ、ってどこかへ放り出されたような気分になる。  私はそれが、たまらなく怖くて、ものすごく嫌だ。  こんな情けないこと、誰にも言えないけど。 「おいコラ、南!」 「は、はいっ……って、え?」  突然、苗字を乱暴に呼ばれて、びっくりして背筋を伸ばす。  けれど私の驚きを他所に、乱暴な声はちょっと離れた場所から聞こえてきた。  なんだ、私のことじゃないのか。違う“南さん”が怒鳴られているんだ。  ……違う南さん?  嫌な予感がひしひしと胸を覆う。  そして、嫌な予感というのは良い予感よりもよく当たるものだ。  きょろりと辺りを見回す。七月の終わり、夏の夜空にはちらちらと星が瞬いている。  声は近くの公園から聞こえてきていた。昔は遊具がたくさんあったのだが、安全性がどうのだとかの問題で次々と撤去されていってしまい、今はベンチと砂場、それにブランコしか残っていない。 「受け取れないって、どういうことだよ」 「そのままの意味だよ。どうして俺が君たちの宿題までやらなくちゃいけないの? 自分でやらなくちゃ意味がないだろ」 「はあ? ……ていうかお前、何口答えしてんの?」  びり、と肌に伝わる空気の感触が変わった。  そこにいたのは四人組の男の子だった。大柄な三人が、小柄な一人を囲んでいる。 「この状況わかってんのか? お前は一人、俺たちは三人。それに、お前はチビで、無力で、喧嘩なんか一回もしたことないお坊ちゃんだ。なあ! そうだろ!?」  せせら笑う声の後に、小柄な男の子の肩が思い切り突き飛ばされてしりもちをつく。  しんと静まり返った夜の公園に、砂利の音が響き渡る。三人組の内の一人、リーダー格の男が、しりもちをついた男の子の上に跨ったかと思うと、胸ぐらを掴んで「聞いてんのか!?」と体を思い切り揺さぶる。今にも殴りかかりそうな勢いだ。  ど、どうしよう? 誰か呼ばなきゃ! 先生? 警察? 近所の大人? はじめちゃんに連絡する?  しかし、おろおろと狼狽える私を他所に、突き飛ばされた男の子は、 「そんなに悪ぶってんのに、宿題サボって教師に怒られるのは嫌なんだ。だっさ!」  と、思い切り相手を睨みつけながらそう叫んだ。  蜂蜜みたいな色をした鋭い目が、月明かりに照らされてきらきら光って、それがとても綺麗で――私は、状況を忘れて思わずぼうっとしてしまった。 「テメェ……!」 「お……おまわりさん、こっちです! 早く来てください!」  ハッとして、大急ぎでそう叫ぶと、三人は怯んだように「お、おい、行くぞ!」「チッ、誰だよ、通報したの!」「次また補導されたら親父に殺される!」なんて騒ぎながら駆け足で去って行く。  うまく、いった……。  心臓が、ドキドキと破れそうなくらい速く波打っている。気持ちを落ち着かせるように、すう、と深呼吸をしてから公園に足を踏み入れる。 「……なにしてんのよ、青葉」  声をかけると、男の子――青葉は、制服のズボンについた砂埃を叩いて払いながら、視線だけを私に向けた。 「……七瀬? こんなところで何してんの?」 「それはこっちの台詞! 青葉、あんたまたいじめられてんの?」 「いじめられているんじゃない。……ただ、厄介な奴らに絡まれているだけだ」 「それをいじめられているっていうんじゃない」  呆れて肩を落とすと、青葉はむっとした顔で黙り込んだ。  青葉は私の、血の繋がらないきょうだいだ。私より一つ年下の中学二年生で、母親の二番目の旦那にあたる、南さんの連れ子である。  南さんは劇作家で、若くして奥さんを亡くし、男手一つで青葉を育ててきた、中々渋いおじさんだ。  母と再婚することが決まった時、南さんは当時十歳だった私の話を、それは真剣に聞いてくれた。私がどうしたいとか、どう思っているとか、そういうことを。  それに、変に父親ぶるようなことも決してしなかった。ただ淡々と、君と仲良くするにはどうしたらいい? と直球に聞いてきた。  私は死んだお父さんのことがとても好きだったし、だから南さんのことをお父さんとは呼べません。それに、今のお家を離れるのも嫌です。  たどたどしくそう伝えると南さんは、表情を一切変えず、 「そうか、わかった」  と、ただ小さく頷いた。  なんだかものすごく説得力のある「そうか」と「わかった」だった。 「七瀬、今日冬子さんそっちに行く日だろ? こんなところにいていいのかよ」 「うわ、痛いところつかないでよ」 「……たまには会ってやれよ。寂しそうにしてるぞ、あの人」 「本当に寂しかったら、別々に暮らしたりしないよ。寂しいんじゃなくて……やきもきしているだけだよ、自分の思い通りにならなくて」 「ひねくれてるなあ」 「青葉に言われたくない」  べえ、と舌を出してそう言うと、青葉は片目を細めて不快そうな顔をした。  頑としてでも今の家を離れたくない私と、南さんの家で四人で暮らしたいと言い張る母の攻防戦は数年続き、今もまだ終戦を迎えてはいない。 「そんなにそっちの家で暮らしたいのなら、お母さんだけ行けばいい。私ははじめちゃんとここに残る。ねっ、はじめちゃん!」 「そんなこと、できるはずないじゃない! 子供はね、親と一緒に暮らさなくちゃいけないのよ。それが世の中の決まりってものなの。ねっ、はじめちゃん!」  人一倍責任感の強いはじめちゃんは、私と母の間に挟まれてぐるぐると目を回し、しまいには、 「俺はどちらの意見もわかるので、どちらの味方にもなれません……こんな中途半端なヤツ、ここにいる資格はありません。お暇をください」  と、思い詰めてしまい、荷物をまとめて出て行こうとしだした。  これにより私たちは慌てて彼を引き留め、一時休戦をすることになった。  元々多忙な母は家を空けてスタジオ近くのマンションに泊まることが多かったし、再婚したからといって私の生活が一変することもなかった。  ただ、ちょっと離れた隣の地区に、戸籍上は家族にあたる人たちが住んでいる、という事実が増えただけだ。  それってなんか、ちょっとヘンかもしれないけど。 「あ、塾の時間……」  青葉がぽつんと呟いた。塾の時間? 時計を見るとちょうど十九時を過ぎたあたりだった。 「くそ……あいつらのせいで」 「あんた、塾なんて行っていたの?」 「ああ、二年の春から通いはじめたんだ。来年は受験生だし」 「ふーん」  私は今年受験生だけど、塾なんてもちろん通っていない。 「お前もちゃんと考えろよ、将来のこと」 「は? ……なにそれ」 「べつに。……ただ、我儘ばかりも言っていられなくなるぞってだけ」 「我儘なんて、」  言っていないとは、言い切れない。  はじめちゃんの困り顔を脳裏に思い浮かべながら、私はぐう音の出せず押し黙ってしまった。 「青葉は考えてるの? 将来のこと」 「何になりたいとか、何をしたいとかはまだ。でも、いずれそういうものが見つかった時に、勉強をしていなかったせいで諦めなくちゃいけなくなるのが嫌だから、今はただ勉強をして備えてる。その時が来た時にちゃんと動けるように」 「うわあ、南さんそっくり」  現実的で、それでいてクールなところが。  青葉はぎろりと私を睨みつけるようにした後、放り出されていた鞄を肩にかけて、「そんじゃ、俺はもう行くから」と短く言った。 「今から塾に行くの?」 「当たり前だろ」 「ふーん……つまんないの」  もう少しお喋りしていたかったのに。  家に帰るのはなんとなく嫌だし、だからといってここら辺をほっつき歩くにしても限度がある。青葉が話し相手になってくれたら、調度よかったのに。  ぶすくれる私に、青葉は呆れたようにため息をつくと、 「お前も、冬子さんそっくりだよ」  と、言った。  なにそれ、褒めてるの? 貶してるの?   疑問に思ったが、青葉はそれ以上何も言わず、「じゃ、そういうことだから」と言い残して去っていった。  ……だから、一体全体どういうことよ。  私の元には、もやもやとした気分の悪さだけが残った。  
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